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    <title>池上惇ブログ文殊文庫便り</title>
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    <description>池上惇（京都大学名誉教授／文化政策まちづくり大学院大学設立準備室室長）によるコラムです。&lt;br /&gt;
できるだけ毎日の更新を目指しております。&lt;br /&gt;
皆様からのテーマのご希望も受け付けております。&lt;br /&gt;
ご希望の方はご連絡下さい。</description>
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    <title>私の教育人生４２（果てしなく遠い道）−５「文化経済学―ライフと富」池上惇</title>
    <description>━━第４２部━果てしなく遠い道━━
５「文化経済学―ライフと富」
━━━━━━━━━━━━━━━━━

文化経済学は、「生業と、そのシンボルを凝視することによって自分を変え、友を変え、世界を変えようとする。
大変、誠意のある、実践的な学問である。石田梅岩流に言えば、「実心実...</description>
<content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:medium;">━━第４２部━果てしなく遠い道━━<br />
５「文化経済学―ライフと富」<br />
━━━━━━━━━━━━━━━━━<br />
<br />
文化経済学は、「生業と、そのシンボルを凝視することによって自分を変え、友を変え、世界を変えようとする。<br />
大変、誠意のある、実践的な学問である。石田梅岩流に言えば、「実心実学」の姿である。　「文化経済学とは」という定義を試みよう。<br />
<br />
　まず、この学問の研究対象を考える。<br />
　それは、「文化を活かす生業と、そのシンボル化が世界を変える」こと、つまり、生業と、それが生み出すシンボルとの相互関係を研究対象にしている。<br />
<br />
　従来の経済学とは、相当に違っている。<br />
　従来の経済学は、社会における経済の動きを研究対象とし、そのなから一定の規則性や法則性を発見しようとした。<br />
　文化経済学は、生業を支配する法則を探求はするが、これで終わりにはしない。<br />
<br />
　生業を高める創意工夫や芸術的表現を追求して、その成果を「生業のシンボル」として評価し、それを生業に反映させ、それによって、生業の質を上げようとする。<br />
<br />
これが文化経済学を生み出した人々の「文化の位置づけ」であり、<br />
「世界の見方」、つまり、世界観である。<br />
　例えば、文化経済学の創始人、<br />
Ｊ．ラスキンは、「富」を定義して、つぎのようにいう。<br />
<br />
　There is no wealth but life.<br />
この定義は、文化経済学の本質を言い当てたものだ。<br />
その意味は、次のとおりである。<br />
<br />
「生業なくして、『富』は存在しない」<br />
すなわち、「人間は、自分たちの持つ生命の‘潜在的な可能性’を活かして、仕事や生活を営んでいる。これ以外の生き方では、富が生まれることはありえない」と。<br />
<br />
さらに、ラスキンは、生業は、必ず、「生業のシンボル」を生み出すと考えた。そして、その生み出されたシンボルを手がかりとして、あるいは、目標として、人々が、従来の生業を見直し、改革や改善を永続的に実行すれば、『富』が質的に高まり、量的にも増加するという。<br />
<br />
では、「生業のシンボル」とは何か。<br />
<br />
それは、「生活の芸術化」ともいうべき、人々が同意できる理念でもあり、「生業の中から生まれて、生業の目的となり課題となる象徴的な表現」である。<br />
<br />
生活の芸術化は、決して、幻想ではない。それは、生業に基礎を置き、自然と共生する人間の労働と、創造の‘営み’を表現している。<br />
生活の中の芸術を表現する上で、典型的な事例は、１８８４年、Ｗ．モリスが遺した一枚のスケッチである。<br />
<br />
　そこには、１９世紀後半のイギリス労働者階級の小住宅、狭小過密な居間が取り上げられて居る。次に、この居間を取り上げてみよう。</span>
]]></content:encoded>
    <dc:subject></dc:subject>
    <dc:date>2010-07-28T23:18:32+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ikegami</dc:creator>
    <dc:rights>ikegami</dc:rights>
  </item>

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    <title>私の教育人生４２（果てしなく遠い道）−４「私の本棚・青木豊明『こしの都』」池上惇</title>
    <description>━━第４２部━果てしなく遠い道━━
４「私の本棚・青木豊明『こしの都』」
━━━━━━━━━━━━━━━━━

久しぶりの書評である。

青木豊明監修『こしの都―千五百年いにしえ浪漫の旅』Vol.1、丹南ケーブルテレビ・地域文化企画室、こしの都編集部　吉田ときお、坂田守正編集制作...</description>
<content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:medium;">━━第４２部━果てしなく遠い道━━<br />
４「私の本棚・青木豊明『こしの都』」<br />
━━━━━━━━━━━━━━━━━<br />
<br />
久しぶりの書評である。<br />
<br />
青木豊明監修『こしの都―千五百年いにしえ浪漫の旅』Vol.1、丹南ケーブルテレビ・地域文化企画室、こしの都編集部　吉田ときお、坂田守正編集制作、発行　丹南ケーブルテレビ・地域文化企画室。福井県越前市塚町１０１武生商工会館、２階。２０１０年３月。１３４ページ。<br />
<br />
　本書は、現代日韓交流の原点を解明する古典である。契機は２００７年継体天皇即位１５００年記念事業であるが、歴史、考古学、地域史研究の成果を結集し、百済最後の都、扶餘と武生との「民際」「グローカル」な交流（上田正昭先生のご指摘。２３ページ）によって生み出された。<br />
<br />
　巻末の坂田守正先生のご指摘によれば、「古代の人達は、日本海の海流により、‘こしの国’と頻繁に交流があって、渡来人の伝えた技術と倭国に存在していた技術が融合し発達してきました。」（編集後記）<br />
<br />
２００１年に天皇陛下が、桓武天皇の母が百済武寧王の流れをくんでいるとの記述などに、韓国とのゆかりを感じると発言された（２０ページ）。両国の深い絆を、いま、民際研究によって蘇生させたのが本書である。<br />
<br />
　この蘇生にあたって、私が特に注目したのは、次の上田正昭先生のご指摘である。<br />
<br />
「大僧正行基のお父様は高志才智といって百済系の方です。母は蜂田古爾比売といって百済系です。」（２２ページ）行基は土木技術や医療、福祉の生活技術に優れ、智慧あるものには智慧を。手の職あるものは職を。財を持つものは財を。力あるものは力を。それぞれにもちより、自らの力で、ともに、この世を変えることを奨めた。<br />
<br />
行基は、この「知識結い」によって日本の民衆を救済し、俗人をも僧になりうるとする画期的な道場を開き公認させた。世界初の道徳共同態の誕生である。俗人を僧にする、と言う発想は、中国王朝にはなかったであろう。まさに、日韓「民際」ならではの着想である。<br />
<br />
聖武天皇が「知識結い」学んで東大寺建立に民衆の協力を得たという歴史。この尊い行いも、日韓民際の賜物であったか。<br />
<br />
　本書を前に、民際による民衆救済事業の思想とその発展について深く考えさせられた。<br />
<br />
これは抑圧されたからこそ生まれた思想ではなかったのか。百済が生活技術によって、悲劇に耐える力量を持っていたこと、そして、その力量が「結い」をもって連帯する倭の文化的伝統と交流する中で、日本固有の貴重な道徳的価値が生まれたのだ。<br />
<br />
　日本の歴史には、「民際」「グローカル」な交流が重要な役割を演じた。和魂漢才、和魂洋才、仏教や儒教、キリシタン文化の受容などなど、この視点から見直してゆくと、新たな日本歴史が見えてくるのだろう。そして、道徳共同態による現代人の生き方も。<br />
<br />
　画期をなす労作。坂田先生の御貢献に感謝。</span>
]]></content:encoded>
    <dc:subject></dc:subject>
    <dc:date>2010-07-24T20:49:35+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ikegami</dc:creator>
    <dc:rights>ikegami</dc:rights>
  </item>

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    <title>私の教育人生４２（果てしなく遠い道）−３「生業の意味」池上惇</title>
    <description>━━第４２部━果てしなく遠い道━━
３「生業の意味」
━━━━━━━━━━━━━━━━━

　今回の大学院づくりで、わたくしは、「生業に打ち込む人々」の生きるための智慧に注目した。京大で経済学研究科の中に、現代経済学専攻をつくらせていただいたときもそうであったが、社会人大学...</description>
<content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:medium;">━━第４２部━果てしなく遠い道━━<br />
３「生業の意味」<br />
━━━━━━━━━━━━━━━━━<br />
<br />
　今回の大学院づくりで、わたくしは、「生業に打ち込む人々」の生きるための智慧に注目した。京大で経済学研究科の中に、現代経済学専攻をつくらせていただいたときもそうであったが、社会人大学院生には、現場の迫力を大学院に持ち込みながら、そこで、「生業の中で」生み出されたアイディアが修士論文、博士論文の核心となった例が多い。<br />
<br />
　これは、自然科学が実験の中で、創造的アイディアを確かめるのと同様であって、社会科学は働く現場で、現場を変えるアイディアをうみだし、実践によってたしかめるのである。このアイディアは、生業に正面から向き合い、まともに、考え抜く人でないと誕生しにくい。その意味では、誠意を貫く人格的な高さがないと研究は出来ないのだろう。<br />
<br />
　弘法大師さまも、「仁なくして学なし」と言う意味の事を指摘されているが、まさに、そうなのである。<br />
<br />
　最近の娯楽アニメには、悪魔の誘惑に負けて自分の研究や知識を、彼らに捧げる科学者が登場するが、これは、作り話であって実際には絶無であるように思う。世に言う‘御用学者’（権力者にへつらうの意）は学者の履歴はあっても、実際には、研究はしておらず、学術人というよりは策士というべき人が多い。<br />
<br />
　そこで、「生業の中で創造的なアイディアを生み出した人々が、それを発展させ、実用化し、世の中に出してゆく場としての大学院」。<br />
「働きつつ、生業から創造的なアイディアを生みだし、学ぶ人々の大学院」が求められるのである。<br />
<br />
　そして、このような大学院をつくるにあたっては、教師が自己を主張するのではなくて、社会人大学院生の生業をよく理解し、その生業の研究に必要な学術を自分も勉強して、ともに、研究する姿勢が必要である。<br />
<br />
　幸い、私は、大勢の社会人大学院生を教育したので、ありとあらゆる産業や、行政、福祉や教育の領域を研究する機会に恵まれた。また、私には、「未知のものへの‘無知の自覚’」と、「次世代への支援で貯金を取り崩し貧乏になった誇り」があったので多様な考え方を柔軟に受容できたように思う。人間、自分の学識に自信を持ち、定職につき、要職を得て、カネが出来、豪邸を建てるとろくなことはない。<br />
<br />
　無知と貧乏のお陰で、自由に学習した結果、おそらく、経済学分野では、当時、主査として、最大の規模の学位授与数であったろう。当然、多様な領域についての深い研究に接して教えていただいたことが多い。有り難いことである。<br />
<br />
　ここから、教師の学生に対する奉仕や報恩の気持ちが生まれる。社会人学生にも感謝の気持ちをお持ちいただくことが多い。ここで両者に共同研究が成り立つと、実に貴重な成果が生まれる。<br />
<br />
　大学院大学の設立準備室は、先月まで、年間家賃３００万円のオフィスであった。私どもには、とんでもない重い負担であったが、市価からいえば、駅前の一等地である。非常に安い。京都市のご配慮に感謝しながら、ここで申請準備をしつつ無数の共同研究の機会があった。この場が感謝と報恩を基礎とした研究活動の場となったのである。その成果は、少しずつ公表され始めているが、そのうちに、奔流のように広がって学術界を一変させることだろう。社会人学生ならぬ‘自立した社会人研究者’‘オーバードクター’とよばれる迫力ある研究者たち。かれらは、坂本龍馬のように海援隊を組織して、社会を洗濯するひとびとである。彼らを放置し軽蔑する社会の主流派に反省を迫り、自分たちこそが日本の学術を担い、著作物を蓄積し、社会の人々に心の糧となる創造的成果をとどけることを目指している。<br />
<br />
　私の長い人生は、彼らと共にあって、いま、開花の時期を迎えた。京都の多数の学術人が社会人教育の大事さをご理解いただき、文化資源を活かした生業の研究に多くの関心が寄せられている今、世代を越えて共同研究の輪がひろがることを切望する。</span>
]]></content:encoded>
    <dc:subject></dc:subject>
    <dc:date>2010-07-23T23:25:23+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ikegami</dc:creator>
    <dc:rights>ikegami</dc:rights>
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    <title>私の教育人生４２（果てしなく遠い道）−２「固有価値と経験価値」池上惇</title>
    <description>━━第４２部━果てしなく遠い道━━
２「固有価値と経験価値」
━━━━━━━━━━━━━━━━━


　「外側から入ってきた知識の型に‘とらわれて’しまうと、自分の内発的な良心に立ち返って、柔軟に、積極的に、未知のものに対応する力が低下しますよ。経営者にとっては、この‘囚われ’...</description>
<content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:medium;">━━第４２部━果てしなく遠い道━━<br />
２「固有価値と経験価値」<br />
━━━━━━━━━━━━━━━━━<br />
<br />
<br />
　「外側から入ってきた知識の型に‘とらわれて’しまうと、自分の内発的な良心に立ち返って、柔軟に、積極的に、未知のものに対応する力が低下しますよ。経営者にとっては、この‘囚われ’が最悪の結果を招きます。」<br />
「同時に、この‘囚われ’に気付き、自分の経験知の価値の大きさに目覚め、‘体得した知識’を基礎として新たな知識を柔軟に受容できると、良い仕事が出来ます。」<br />
<br />
これは、ベテラン経営人の私へのご助言である。<br />
<br />
　一生懸命に、大学院大学の創設に打ち込んでいたとき、私の姿勢の中に、このような‘囚われ’を感じられたのであろう。<br />
　この‘内発的な良心’とは、何だろう。大阪へのＪＲの車中で、一生懸命に考えていた。<br />
<br />
　どうも、それは、私にとっては、「固有価値」「固有価値の享受能力」などと言ってきたことではなかったのか。それを忘れていたわけではないが奔っているうちに、どこかに、おいてきたのか。<br />
<br />
 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊<br />
<br />
　私は、大学における学部の新設や専攻の増設に一貫して微力を尽くしてきた。その意味では、「大学制度」の理解者であると自分に言い聞かせ、その積極的な活用を求め、奨励してきた。そして、オーバードクターなど、失業者が出てくると大学の増設によって、社会のニーズに応え、雇用を拡大しようとしてきた。京大でも、福井県大でも、京都橘女子大学でも、すべて、増設は成功した。大学づくりには、研究者への希望と言える何かがあって、私なりの成功体験であったのだろう。<br />
<br />
　しかしである。<br />
　「通信制社会人教育で、『文化による‘まちづくり’」を担う人材をつくる』と言い出した途端に、急に、状況が厳しくなって、折角、学部をつくっても、名称変更や、再編成を進められてしまう。かといって、新設に力を入れても、うまくゆかない。<br />
<br />
　どうしてなのかな、と、考えているうちに、先のご助言をいただいたのである。<br />
<br />
一度、従来の成功体験をはなれて、なぜ、いま、自分は、この大学院づくりに取り組んできたのか。改めて見詰めなおした。<br />
<br />
それは、はるか、１９６０年代のことになる。<br />
当時は、三菱三重工合併や新日鉄の発足など、日本産業の再編成が相次いでいた。そこで、中小企業の再編成が進み、倒産も増えていた。大学の助手を拝命して地域調査に打ち込んでいた頃、倒産企業の再生を担って、リュックサックに自社の商品を詰め、行商している方々に出会った。これが、私の「仕事おこし」との出会いであった。この方々は地社の製品、自分の職人技に自信を持っておられ、「企業はなくても、人間はいる。商品はつくれる」とのメッセージが伝わってきたのである。材料や自然の素材のよさを活かし、職人の技で創り上げたもの、それに誇りを持つ人々は、惨めな失業者として、世間からは冷たく見られる。しかし、顔を上げ、誇りを持って商品を世に出す。この商品には、自然の固有のよさと、職人技の固有性とが結合されていて、それが、形となっている。<br />
この固有のよさを、享受できる人々が、でてくれば、企業は再建できるのだ。<br />
<br />
「創造」と「享受」の場を繋ぐもの。それは何だろう。<br />
それが、大学だ、と教えてくれたのは、大塚金之助先生が岩波書店から刊行されていた『解放思想史の人々』という１冊であった。このなかに、アダム・スミスがグラスゴウ大学で、職人、ワットのために蒸気機関の実験所を設けたことが記されている。創造する人々に場を提供し、享受する人々を開発して、世に出してゆく。<br />
こういう大学をつくりたいなあ、と思ったのが、今日まで、私の良心が命じた行動であった。<br />
<br />
「生業の中で創造的なアイディアを生み出した人々が、それを発展させ、実用化し、世の中に出してゆく場としての大学院」「働きつつ学ぶ人々の大学院」これが私の原点であった。<br />
　</span>
]]></content:encoded>
    <dc:subject></dc:subject>
    <dc:date>2010-07-23T00:41:51+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ikegami</dc:creator>
    <dc:rights>ikegami</dc:rights>
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    <title>私の教育人生４２（果てしなく遠い道）−１「時空を超える生き方とは」池上惇</title>
    <description>
━━第４２部━果てしなく遠い道━━
１「時空を超える生き方とは」
━━━━━━━━━━━━━━━━━


　暑い中、頭がぼうっとして、何となくテレビをみていると、大きな鰐の映像が眼に飛び込んできた。

「恐竜時代を乗り越えて最強の存在だった鰐も、小さくていつも巨大な生き物...</description>
<content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:medium;"><br />
━━第４２部━果てしなく遠い道━━<br />
１「時空を超える生き方とは」<br />
━━━━━━━━━━━━━━━━━<br />
<br />
<br />
　暑い中、頭がぼうっとして、何となくテレビをみていると、大きな鰐の映像が眼に飛び込んできた。<br />
<br />
「恐竜時代を乗り越えて最強の存在だった鰐も、小さくていつも巨大な生き物の陰に隠れて生き残ってきた哺乳類の進化にはかないませんでした。鰐は、地球を襲った大激震が収まって陸に上がった途端、最強の象徴であった大きな口や歯、強くて、長い尻尾などは、機敏に、賢く、急速に動き回る哺乳類には対抗できず、定着できませんでした。<br />
<br />
これは、進化の過程で「特殊化」とよばれるもので、身体の機能や能生の構造が、水棲に適応しすぎて陸上での活躍に適応できなくなった事を示しています。」<br />
<br />
「これに対して人類の祖先である哺乳類は、ねずみのようにはしっこく動き、四足で歩行し、胎盤で長期に子供を保存して脳の発達に場を提供し、前足を進化させて、手への途を開き、直立歩行の可能性を持って脳を発達させ、さらに、後ろ足を跳躍に活用して、機敏な活動を可能にしました。」<br />
「様々な変化に対応して、機敏に行動できること、脳の進化によって、適切な判断ができること、これらは、哺乳類が変化に対応して生存できる条件となりました。‘特殊化’しないで、多様な変化への多様な適応性をもっていたこと、これが進化の鍵ですね。」<br />
<br />
　　解説者のご説明に納得しながら、いつしか、むかし、愛読した河上肇先生の『自叙伝』の一節を思い出した。先生は、いまでも、「マルクス主義者」という特殊な領域の思想家であると考えられていて、海外の研究者の著作にも、「マルクシスト」として扱われている。<br />
<br />
しかし、先生ご自身は、自叙伝のなかで、「自分の特徴は‘真理を求める柔軟な心’にある」ことを指摘されていた。確かに、先生は、若い頃は、儒学、ラスキン、近代経済学、中年から、マルクス経済学、晩年は、老荘思想とラスキンへの回帰、などの「柔軟」な変化を体験された。まさに、特殊化の反対である。<br />
<br />
「真理を求めて柔軟に思考し行動し、行動の結果から学習しては行動の型を変更」される。<br />
<br />
　これは、無限の変化、進化の可能性を持つ思想であろう。<br />
<br />
　その意味では、「真理を求める柔軟な心」は、時間と空間を越えて、先生の著作を読む人々の「心の糧」となりうる。<br />
<br />
いま、市民大学院づくりに取り組んでいると、日本社会は、これだけの発展を遂げていながら、「固定化・骨化」された制度や、頭の固い人間によって政治、行政、学術などの世界が占められていることがわかる。<br />
<br />
さらに、これらの世界だけではなくて、自分たちがともに歩み、ある意味では、教育のなかで、一生懸命に発達を支援してきたはずの各位にも、この圧力は浸透している。いつも、不徳だなあ、と感じる。私の生き方が未熟で、開かれた可能性が感じられなかったのだろう。<br />
<br />
進化の可能性をいつも開いている生き方。今回は、このテーマを追いかけてみたい。</span>
]]></content:encoded>
    <dc:subject></dc:subject>
    <dc:date>2010-07-21T23:30:51+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ikegami</dc:creator>
    <dc:rights>ikegami</dc:rights>
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    <title>私の教育人生４１（本物と映像）−１１「地域固有型文化資本の象徴化と響鳴」池上惇</title>
    <description>━━━━第41部━本物と映像━━━━━━━
１１「地域固有型文化資本の象徴化と響鳴」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

　私は、従来、アダム・スミスの「模倣芸術論」に強い関心を持っていた。スミスというひとは凄く視野の広い人で、村の祭の踊りや音楽から天文学まで、まさに、「地人が...</description>
<content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:medium;">━━━━第41部━本物と映像━━━━━━━<br />
１１「地域固有型文化資本の象徴化と響鳴」<br />
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━<br />
<br />
　私は、従来、アダム・スミスの「模倣芸術論」に強い関心を持っていた。スミスというひとは凄く視野の広い人で、村の祭の踊りや音楽から天文学まで、まさに、「地人が天に梯子をかける」（内村鑑三）仕事をしたのである。<br />
<br />
かれは、カーペット職人が製造した「ほんもの」の価値と、そのカーペットの模倣品の価値を比較して、「ほんもの」の価値は、職人技の固有性を反映するが、その固有性の価値の高さは、実は、「模倣の困難なもの」ほど、「ほんもの」の価値が高い事によって表現されることを発見した。そうなると、「模倣の容易なもの」は、固有の価値が低く評価されて当然である、ということになろう。<br />
<br />
　これは、当時の職人技のもつ創造性を評価する基準として非常に優れたものであろう。<br />
<br />
　ただ、彼は、模倣によって、「ほんもの」がコピーされることを強調したが、「模倣の技術が優れてくると、どのような‘ほんもの’でも容易にコピーが出来るようになる」ことは予見できなかった。最近の写真技術やスキャン技術は、これを実現している。国宝級の文化財でも簡単にコピーしてしまう。<br />
<br />
さらには、優れたほんものが容易にコピーできるようになると、「‘ほんもの’のなかにある『普通の人には見えないもの』が見えてくるようになる」などということは、スミスの夢想だにしなかったことだろう。<br />
<br />
そして、従来は「コピー」だと考えられていたものが実は、単なるコピーではなくて、職人技が生み出した制作当時の色彩や文様、細工、芸術的表現が再生できる。これは、村上隆先生（京都国立博物館）が長年、出土した鏡の蘇生をめざして研究されてきた成果であった。今日、１７日は、京都国立博物館で、この鏡と蘇生映像が展示される由、楽しみである。<br />
<br />
　また、今朝ほど、向井周太郎先生から、『かたちの詩学』（著作集、作品集）美術出版社、初版、２００３年、『デザイン学―思索のコンステレーション』武蔵野美術大学出版局、２００９年初版、『デザインの原像―かたちの詩学?』中公文庫、２００９年１月初版、向井一太郎・向井周太郎『ふすまー文化のランドスケープ』中公文庫、２００７年、を、拝受した。<br />
<br />
　私たちが１９９０年代のはじめに出版した『文化経済学のすすめ』などに御言及いただき、ラスキン学の蘇生を心からお歓びいただいていること、有り難く拝読させていただいた。それらの文献の中に、次の１節がある。<br />
「自然は多様であり、その多様な物象が入り乱れ輻輳し絶えず変容するがために混沌である。そうした自然こそ豊富な抽象の富を蔵しゆたかな想像力と鋭い直観力をはぐくむ契機をなす。<br />
<br />
　壁のしみ（レオナルド・ダ・ヴィンチが奨めた独創力蘇生の啓示―本ページの前段より）や岩肌や樹皮の表情などはそうした自然の純粋にして抽象的な根源としての紋であり、さまざまな連想を喚ぶフォルム、色、テクスチュア、空間、リズム、運動などを同時にはらんだ原記号ではなかろうか。」（前掲『デザインの原像―かたちの詩学?』中公文庫、２００９年、６８ページ。）<br />
<br />
　「壁のしみ」と接して蓄積された潜在能力を開花させる人々、まさに、「地人」がつくりだす芸術作品。この「しみ」から、先の手鏡の「錆や塵、よごれ」を連想した。<br />
<br />
例えば、古代の手鏡をつくる職人たち。かれらは、自然の中にある「固有価値」から芸術作品としての「ほんもの」の手鏡をつくった。貴人、栄光のときは直ぐに終わり、鏡は土中に埋まり、長い、長い歴史と「しみ」が錆や汚れを蓄積する。　<br />
<br />
　いま、古代の手鏡作りの職人が生み出した芸術作品を媒介として、村上先生は、現代の認識技術を用いて‘錆や塵の蓄積された手鏡という「原記号」’を蘇生させ、職人たちの尊い‘営み’を、今に伝えられた。手鏡に施された微細な仏像、文様の素晴らしさが蘇る。<br />
<br />
　この「原記号」を媒介として、現代人と古代人、現代人相互の会話、響鳴が始まる。この会話を向井先生のデザインで表現すれば、そこに哲学のある「言葉の星座」が表れて、暁の天空に輝きを放つに違いない。<br />
<br />
　いままで、模倣と言うレベルでしか捉え得なかったものを、新たな次元に導いてくださいました、村上隆先生、向井周太郎先生、深く感謝いたします。益々、お元気で、ご清栄ありますように。</span>
]]></content:encoded>
    <dc:subject></dc:subject>
    <dc:date>2010-07-21T01:05:51+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ikegami</dc:creator>
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    <title>私の教育人生４１（本物と映像）−10「大学院大学の固有性とシンボル価値」池上惇</title>
    <description>━━━━第41部━本物と映像━━━━━━━
10「大学院大学の固有性とシンボル価値」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

前回は、中身よりもイメージを重視し、イメージにあわせて中身をつくろうとする大学人の傾向について指摘した。これは、開発構想など多くの領域で見られることだ。

こ...</description>
<content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:medium;">━━━━第41部━本物と映像━━━━━━━<br />
10「大学院大学の固有性とシンボル価値」<br />
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━<br />
<br />
前回は、中身よりもイメージを重視し、イメージにあわせて中身をつくろうとする大学人の傾向について指摘した。これは、開発構想など多くの領域で見られることだ。<br />
<br />
これに対して、現在、申請を準備中の大学院大学では、「地に根ざした固有性」が重視されている。各地に根ざした地元学ネットワークの研究教育実績を基礎に、京都の大学で育まれてきた学術的伝統を結合し、国際水準の文化政策大学院をつくろうと言うのだ。<br />
<br />
そして、このイメージを広告ではなくて、現場の‘営み’を映像化し、それを授業に反映させようとする。地域固有性があっての「象徴型文化資本＝映像、電子ブックなどが示す大学院像」である。<br />
<br />
ととろが、審査の先生方の発想は、「イメージ」が、まず、あって、それを実現するために、教学やカリキュラムを組ませ、それが、卒業人の職業適応性を決める、と、お考えのようである。<br />
<br />
大学の中身は、ともかく、まず、外に出る「映像的な広告的イメージ」を審査の各位は重視されているようだ。<br />
<br />
審査の意見には「○○像」を求める指摘がめだつ。例えば、次のようなものである。<br />
<br />
まず、審査の意見というものを説明しよう。<br />
審査意見というのは、Ａ４の、あまり文化的とはいえない、どちらかといえばさえない、印刷スタイルで、横書きで書かれている。よい印刷ソフトを準備するには財政危機が影響しているのだろう。<br />
<br />
文化政策大学院では、審査意見が４８もあった。不思議なことだが、意見への対応は述べる機会がない。意見数が多いだけで、６月の審査会の審査を経ないで、不可に出来るルールをつくられたそうで、私たちが意見を述べる機会はないそうだ。<br />
<br />
この意見群のなかの「是正意見」が、「○○像」を求めて、それから、中身をつくらせようとする典型的なものであった。<br />
是正意見というのは、改善意見、要望意見という３ランクのなかで、最も強い指摘のことである。端的にいうと、‘是正しないと認可しない’と言う意味らしい。<br />
<br />
今回の是正意見の先頭におかれていたのは、社会人学生教育の卒業後の進路についての部分である。是正意見は、次のようなものであった。<br />
「高度専門的職業人像が不明確であるため、具体的に示すよう修正すること」｛審査意見３．（５月）不可（案）｝。<br />
<br />
この指摘が「像」を求めていることは明らかである。<br />
<br />
実は、高度専門職業人の進路に関する記述は、申請書では具体的に詳しく述べられていて、文化資源を生かしうるコーディネイターが高度な専門職業人として位置づけられていた。それらの事例や開拓の必要性も語られている。７ページから１５ページまで、相当な長い記述であり、社会の需要とそれに対応する職業分野、その開拓の重要性を詳細に具体的に論じていた。私が基軸となり討論によって執筆したが、一同、とくに、力を入れたように思う。<br />
それでも、「像」が見えないという言い方は可能である。「像」には多様性があって、誰でも、提起できるし、自分に「像」がなくても、質問は出来るからである。<br />
<br />
これは、「広告」にだせる「大学イメージ」が自由に操作できるのと同様である。通例は、<br />
<br />
社会学者が「シンボル操作」とよぶ手法の一種なのだ。これは、ある人をイメージで誘導するものであるから、本来、真理や学術を探究する場を形式的に取り扱う「大学の審査」には馴染まない。しかし、恐らくは、無自覚に、操作を実行されているのであろう。<br />
<br />
操作となれば、これは、審査側のイメージを被審査側に暗黙裡に提示するおそれがあるから、法の趣旨からいえば、違法性が強いかもしれない。審査はあくまで「形式審査」であるべきで、「教学の内容や大学院大学の理念など」には踏み込めないからである。<br />
<br />
審査は、「像」と言う表現で、私たちが執筆した卒業生の高度専門職業人のイメージ（それは、各地の‘営み’に基礎を置いた、文化資源を活かすコーディネイターという「像」）を否定し、しかし、具体的には、自分の意見を言わずに、変更を求めている。つづけていう。<br />
「併せて、高度専門（的）職業人の養成を掲げるのであれば、その養成する人材像に整合した教育課程となるよう修正すること」とある。つまり、自分の「像」はいわないが、あなたの「像」とは別の「像」を想像して、「それに併せて書き直しなさい」と言っているのだ。<br />
<br />
これは、法的には「無作為」による教唆にあたり、最も、非倫理的な、昔の日本の表現では「卑怯」と呼ばれた操作方法に当たる。私は武士ではないから反論はしないが。<br />
<br />
例えば、「像」を具体的に示せ、というなら、「ここには、このように書いてあって、このように理解できる。しかし、○○の理由で抽象的であると判断する。具体的に書くとすれば、『像』は、かくかく、しかじかで、つぎのようになるのではないか」というように指摘する必要がある。これでなければ、互いに議論の根拠を認識しあってよりよい結論に導くことは出来ないからだ。<br />
<br />
しかし、このように「具体的に」書けば、それは、「形式審査ではない。実質的な内容にたちいった、違法行為である」と言われるだろう。このような意味では、「像」に関する質問はあってよいが、対面で議論すれば有益なものであり、一種の強制性がある「是正意見」ではないだろうと思う。<br />
同時に、申請の内容を、このように、抽象的な「像」によってしか、理解できないのは、現在の大学が、教育サービスの提供を「知識の缶詰＝広告イメージ」のように思っているからであろうと想像した。おそらくは、審査の各位は御自分の大学を広告するとすれば想像されるであろう「高度専門職業人のイメージ」と、それに必要な「知識の缶詰」をつくるカリキュラムが対応しているはずだと考えられたのではないか。<br />
<br />
その意味では、今回、私は、申請を自分で引き下げる結果となったので、ご苦労をおかけした事務官の各位や、関係者、支援者にはお詫びする他はないが、今後は、無作為のシンボル操作と疑われるようなことはすべきではないと思う。自戒を込めて。＊<br />
<br />
＊最近、京都の学術人の集まりの場で、文化政策大学院の不可を話題にして提供された由である。これも一種の「シンボル操作」であって、おそらく、私たちのイメージを現実から乖離させる結果をともなうだろう。私の不徳。お詫びと共に深く慎むべきこと。反省。</span>
]]></content:encoded>
    <dc:subject></dc:subject>
    <dc:date>2010-07-18T20:46:33+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ikegami</dc:creator>
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    <title>私の教育人生４１（本物と映像）−9「市民大学院・教師と学生の知識結い（続）」池上惇</title>
    <description>━━━━第41部━本物と映像━━━━━━━
9「市民大学院・教師と学生の知識結い（続）」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

　いままで、私は、日本の公益法人制度を信頼してきた。学校法人などは、教育研究のために公共性の高い教育サービスを社会に提供し、日本社会の知識基盤を強めるた...</description>
<content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:medium;">━━━━第41部━本物と映像━━━━━━━<br />
9「市民大学院・教師と学生の知識結い（続）」<br />
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━<br />
<br />
　いままで、私は、日本の公益法人制度を信頼してきた。学校法人などは、教育研究のために公共性の高い教育サービスを社会に提供し、日本社会の知識基盤を強めるためにあるものと考えてきたのである。<br />
<br />
しかし、文化政策大学院大学を申請してみて、いまの私学認可制度は、本来のものとは、かなり違うのではないかと感じるようになった。<br />
<br />
昨日、社会人大学院をでられて指定管理でご活躍の先達にお目にかかった。そのおりも、私のやっている申請活動を含めて厳しいご指摘を受けた。<br />
<br />
先達「先生は、いまの学校法人制度が生かされるものとお考えでしょう。しかし、今でも既に、‘まちづくり’には問題があるとか、通信制で学位は出せるはずがない、とか、高齢者は専任になれないように基準を解釈するとか、給与を上げろ。補助金を貰え。多様な科目を集約するほうがよい、などのことがあるではないですか。そのうちに、通信制をするなら６千万くらいするシステムをいれよ、とか、大講義室をつくれとか、先生の教育理念に違反する事をやらされて経営は大赤字。理想的な教育はどこへやら、ということになりますよ。<br />
<br />
市民大学院は大賛成です。大学の発生のときにたちもどって大学再生を真の人格と専門性のある教員のネットワークで着手し、授業を教員の奉仕でおこない、社会人学生の感謝による研究投資などで実現されるのがよろしい。これでこそ大学です。」<br />
<br />
池上「いや、たしかに、そのような雰囲気はうすうす気付いてはいますが、それでも、まだ、希望をもっておりまして」<br />
先達「それが甘い。いまの大学をごらんなさい。電車の中では、法律事務所のサラ金処理広告と、大学の広告ばかり。サラ金広告は減りましたが、潰れ始めたからですよ。広告を出すような大学はいまに潰れますよ。その理由は、新設のときや、学部、大学院などの増設のたびに、学生増加という幻想をちらつかされてですね。審査過程で、立派な校舎をつくらされ、巨額のＥラーニング・システムなどを買わされて、大きな負債を負うからです。その上に、学部のカンバンは塗り替えますが、教員は雇うカネがない。中身が薄くなる。一層、学生は離れますよ。先生も、将来の学生増などという幻想をもたれると、同じ結果になります。いいかげんに眼を覚まして欲しい。」<br />
いや、それでも、ご支援いただいた各位のご期待がありますから。あきらめません。<br />
<br />
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊<br />
これは大変だ。同時に、前回のブログで述べたように、大学の広告も、「大学精神の瓶詰め」のイメージが登場したことと関連して、「理念の抽象化」「イメージ化」が進んでいることにも危機感を持った。<br />
<br />
その理由は、何かと言うと、「もっとカネをかけなさい」と言わんばかりのご注意と並んで、極めて抽象的で、具体性に乏しいイメージを大学院教育に求める風潮が、今年の審査にも及んでいるな、と感じたからである。<br />
<br />
次回は、このような「イメージ」から「内容」を、という発想を検討しよう。</span>
]]></content:encoded>
    <dc:subject></dc:subject>
    <dc:date>2010-07-18T20:42:51+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ikegami</dc:creator>
    <dc:rights>ikegami</dc:rights>
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    <title>私の教育人生４１（本物と映像）−8「新しい大学院・教師と学生の知識結い」池上惇</title>
    <description>━━━━第41部━本物と映像━━━━━━━
8「新しい大学院・教師と学生の知識結い」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

　来年の４月から市民大学院を発足させることにした。
　それほど、大げさなものでなくて、知性の豊な人間同士のあたたかな愛が感じられる雰囲気が欲しい。

　今の...</description>
<content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:medium;">━━━━第41部━本物と映像━━━━━━━<br />
8「新しい大学院・教師と学生の知識結い」<br />
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━<br />
<br />
　来年の４月から市民大学院を発足させることにした。<br />
　それほど、大げさなものでなくて、知性の豊な人間同士のあたたかな愛が感じられる雰囲気が欲しい。<br />
<br />
　今の大学は、サラ金の広告と並んで宣伝をする。電車の広告なども、かなり、派手で、同時に、定員割れを心配する緊張感からか、人の笑顔よりも、缶詰、瓶詰めのラベルで見学精神を表示するなど、物質的で、一種の冷たさが感じられるものも多い。<br />
<br />
　なんとなく、瓶詰めされた精神や知識を高い授業料で買うようなイメージである。<br />
<br />
　昔は、「大学は駅弁売りのようなもので、はしりゆく学生達に、知識のハコを売るビジネス」といった人が居た。すでに故人であるが、なるほどと、感じたことがある。<br />
<br />
　でも、これでは、困るのだ。<br />
<br />
　かつて、発生期のイタリアの大学は、社会人である学生達がまちづくりの一環として、コミュニティの高等教育部門をつくり、優れた学術人を教授に起用した。教授の講義などは、コミュニティへの奉仕活動であって、社会人学生は、奉仕への感謝を込めて一人ひとりが支払い能力と、教授への尊敬の念をこめて謝礼を行った。<br />
<br />
奉仕と報恩は、教育の基礎であり、人間同士の深い絆である。ともに、人格を高めあってこそ成り立つ関係である。<br />
<br />
いま、市民大学院を構想するとき、この原点に立ち戻って構想してみたい。<br />
現代のコミュニティは、義務教育とともに、高等教育、大学院教育にも人材を配置し、社会の資源を配分する。この点では、イタリアと同様である。<br />
社会人が主体となって、寄附金を集め、学術人の参加を求める。<br />
<br />
学術的な知識を普及し、次世代の研究者や教師を育てることに関心を持ち、社会貢献として、大学院教育を実践する教師は、社会人への奉仕活動として、教育を行う。<br />
<br />
また、社会人など学生は受講者であると共に、教員との共同研究者として位置づける。社会貢献として、講義を提供するので、公共サービスとしての授業内容の質を上げることは、最重要な課題である。<br />
<br />
そこで、報恩の精神を持つ社会人や篤志家は、教師と学生の各共同研究単位に対して、寄附を集め、協賛金を積み上げて研究活動を支援する。<br />
<br />
「共同研究単位の構築」を支援する研究投資。これによって、講義は、社会人学生のニーズに応えた内容を研究し、講義の準備をすることになる。<br />
共同研究が地域における現場の実態や喜怒哀楽、物語を対象にし、実態を過去の研究成果と照合して、教材を作り上げる。<br />
<br />
教材は、現代の情報技術、認識技術を前提すると、書籍だけでなくて、映像の入った電子書籍や、映像、音声録音を伴う象徴型文化資本とならざるを得ない。<br />
<br />
市民大学院を媒介として、地域固有の文化資本と、象徴型文化資本が結合され、学術的成果が地域の人々に共有される。これによって、地域固有の文化資本の発見や再生の方向性が見えてくる。これが、本来の大学であり、大学院ではなかったのか。</span>
]]></content:encoded>
    <dc:subject></dc:subject>
    <dc:date>2010-07-16T02:33:48+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ikegami</dc:creator>
    <dc:rights>ikegami</dc:rights>
  </item>

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    <title>私の教育人生４１（本物と映像）−７「都市景観における地域固有性と象徴性」池上惇</title>
    <description>━━━━第41部━本物と映像━━━━━━━
７「都市景観における地域固有性と象徴性」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

　都市景観は、自然の固有性を共通の基礎とし、人に体化された文化資本と、有形物に体化されたそれとが、反響しあって形成される。人々の暮らしや生業の営みの中に、環...</description>
<content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:medium;">━━━━第41部━本物と映像━━━━━━━<br />
７「都市景観における地域固有性と象徴性」<br />
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━<br />
<br />
　都市景観は、自然の固有性を共通の基礎とし、人に体化された文化資本と、有形物に体化されたそれとが、反響しあって形成される。人々の暮らしや生業の営みの中に、環境文化資本、文化遺産や自然遺産が入り込んで、文化的伝統を人々に伝える。<br />
<br />
　たとえば、都市の中の散歩道や歴史街道などは、その典型である。<br />
　多くの文化的伝統は、水や山林を制御するための知恵を生み出し、都市や地域に静穏をもたらす。さらに、伝統的な自治制度や水への制御技術などによって交通や移動、交流を生み出し、「知識結い」を創り出す。一人ひとりが職人技を持ち寄り、文化資源を活かしあう無数の企業や非営利組織が展開し、生活を芸術化し、文化資源を企業活動に取り入れる。<br />
<br />
都市景観の再生は、多くの場合、文明による都市解体の危機を乗り越える。文化遺産の保護や活用が進み、水や緑が蘇生し始め、自然エネルギーによる動力が環境保護と産業発展を共生させる。地場産業が文化資源を活かして再生し、さらに、高度な技術革新へとつながる。ナノテクの時代、微小なチップのなかに多様な象徴型文化資本が凝縮されて、人々が感性を高め、芸術や学術に触れる機会を拡大する。<br />
<br />
都市景観は農村的で、牧歌的な雰囲気を自然と文化遺産によって実現し、グローバルゼーションの荒々しい波をしっかりと受け止める。再生された都市のイメージを人々が共有できれば、アメニティ空間を積極的につくり出そうとする動きが始まる。都市の象徴型文化資本が都市再生の現実の動きを促進しうる。<br />
<br />
ここで、地域固有型文化資本と、象徴型文化資本は、どのような発展を展望できるのか。<br />
<br />
たとえば、創造都市における景観は、一方で、現場的な地域固有文化資本を活かした知識結いによって、文明が破壊しかけた都市景観を再生する。<br />
そして、他方では、サイバー空間や映像空間に密着した象徴型文化資本を生み出し、相互に影響しあって、都市景観の蘇生した姿を人々に示し始める。再生された都市空間は「ほんもの」ではないが、映像などの姿で、人々に、自分たちが再生すべき「真実の姿を映像化する」。<br />
<br />
この二つは、複合的存在となり、両者は饗鳴しあって、創造都市空間を創り出す。<br />
<br />
この象徴型文化資本は、「ほんもの」というべき、生業の中から生み出された地域固有の文化資本の「文字や映像、写真、音声などによる表現」であり、都市の広報やメディアにおける紹介などにおいては、しばしば、映像化されている。<br />
<br />
かつては、映像は単なる模倣の意味であった。しかし、それは、広報やメディアの、芸術的な表現と一体となって、現場の生業を反映し、さらに、現場では見えないもの、歴史や企業発生の過程、創業者の人物像、など、多様なイメージを映像化された都市景観に託して示すことができる。<br />
都市の景観を航空写真や映像化、静止画像化して、凝縮して表示する場合を考えてみよう。これは、絵葉書のようにメッセージを郵送するときの手段として活用することもできるし、ＤＶＤ化して商品化することも出来る。あるいは映画として登場人物の物語を記録することも出来る。この場合には、都市、例えば、京都の地域固有型文化資本が、象徴型文化資本として表示できる。<br />
<br />
都市経営の場合には、このような「象徴型文化資本」を、メディアなどを通じて普及し、観光事業者に旅行事業として、パック化させることも出来る。「パック旅行の価格」が提示され、文化資本が貨幣価値で評価されて、「京都二泊三日、１パック交通費・宿泊費ともで、５万円」という表示が可能である。この表示は、象徴型文化資本の「貨幣資本化」であろう。<br />
他方、地元のNPOが、個人や家族として観光や訪問の客を受けいれる場合にも、写真や映像、音声などの「象徴型文化資本」は、大きな役割を果たす。それは、貨幣資本に転換された価値として都市景観を位置づけるのではない。人々は、「象徴型文化資本」から学習して現地の「ほんもの」に関心や研究の意欲を持ち、現地を訪問し、地域固有の文化資本、その創造性に触れて感動し、あるいは、自己の生命の蘇生を図ろうとする。<br />
<br />
象徴型文化資本が人々に与える構想力や感動などは、創造都市の持続的発展のために、なくてはならない「都市の鏡」となったのである。</span>
]]></content:encoded>
    <dc:subject></dc:subject>
    <dc:date>2010-07-14T15:00:58+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ikegami</dc:creator>
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    <title>私の教育人生４１（本物と映像）−６「ケインズによる金貨幣の象徴化」池上惇</title>
    <description>━━━━第41部━本物と映像━━━━━━━
6「ケインズによる金貨幣の象徴化」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

ケインズは、『一般理論』と題する自著の中で、ミダス王の失敗談として、「拝金主義者たち」を嘲笑した。この王は、強欲で、神様に、自分の手に触れたものは、すべて金に換え...</description>
<content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:medium;">━━━━第41部━本物と映像━━━━━━━<br />
6「ケインズによる金貨幣の象徴化」<br />
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━<br />
<br />
ケインズは、『一般理論』と題する自著の中で、ミダス王の失敗談として、「拝金主義者たち」を嘲笑した。この王は、強欲で、神様に、自分の手に触れたものは、すべて金に換えてください、と頼んだ。<br />
神様が彼の願いを聞き届けてくださったので、手当たり次第に、椅子や机を金に変えて喜んでいた。しかし、｛のど｝が渇いたので、水の入ったコップを手に取ると、金になってしまうから、飲むわけには行かない。しまった、と気がついたところで、可愛い孫娘が走りこんできた。喜んで抱き上げたら、金に変わっていた。<br />
<br />
さすがの王も自分の誤りに気がついて、「すべてを金に換える超能力」を神様にお返しした、というのである。<br />
<br />
金貨幣は、意味のないものの象徴なのだ。<br />
<br />
この話は、ケインズが、当時の「古い頭の金持ち」つまり「財産を金貨で溜め込んでばかりいて、リスクの多い投資活動に踏み込めない資産家を攻撃するために持ち出したのである。そして、金貨幣を紙幣に置き換えて、金貨を大事にしていた連中を収奪し、カネは入れば、消費し、あるいは、公債を交わせて政府が資金を手に入れ、大規模公共事業で、雇用を拡充すれば良い、と主張した。この主張も‘まゆつば’ものではあるが、金貨幣の限界を指摘した点では、卓見であろう。<br />
<br />
金銭を溜める。それに熱中する。このような連中は、ケインズに言わせれば、溜め込むだけで、満足してしまう。それが安全であって財産が保全できると考えてしまう。その結果、貨幣を積極的に消費に活用し、あるいは、リスクを取って、投資活動に参加しようとはしない。彼らは、溜め込んだ貨幣の「蓄積されたもの」を、しっかりと、私有し、この「貨幣蓄蔵」を所有権の証しとする。<br />
<br />
このような時代に終止符を打とう。<br />
そして、紙幣と、財政赤字と、大規模公共事業、さらには、穏やかなインフレーションの時代を拓こう。実質賃金は低下するが、完全雇用が出来れば、資本主義は救済できる。　<br />
<br />
貨幣を生業のシンボルとして把握したラスキンは、ケインズとは、違っていた。<br />
<br />
かれは、場合によれば、コミュニティが独自に作る貨幣を容認した。生業によって制御しうる貨幣とはなにか。<br />
それは、「貨幣とは、貴金属の一種である。そして、金銀を蓄積すること自体を‘人生の中で価値のあること’と考える人々への助言であり、倫理的な立場からの勧告のようであった。<br />
<br />
信頼関係や道徳共同体の中での貨幣。信頼関係のシンボルとしての貨幣。<br />
このあり方が問われているのである。<br />
<br />
多額が投機を象徴し、小額が生業を象徴する。真実の価値とは何か。</span>
]]></content:encoded>
    <dc:subject></dc:subject>
    <dc:date>2010-07-11T15:08:25+09:00</dc:date>
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    <title>私の教育人生４１（本物と映像）−５「文化資本の象徴化と貨幣資本（続）」池上惇</title>
    <description>━━━━第41部━本物と映像━━━━━━━
5「文化資本の象徴化と貨幣資本（続）」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

　前回見たように、地域に根ざした生業の成果であり、職人技の粋を尽くした財であっても、商取引のなかでは、しばしば、「金銭的価値を追求する亡者」の餌食となる。

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<content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:medium;">━━━━第41部━本物と映像━━━━━━━<br />
5「文化資本の象徴化と貨幣資本（続）」<br />
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　前回見たように、地域に根ざした生業の成果であり、職人技の粋を尽くした財であっても、商取引のなかでは、しばしば、「金銭的価値を追求する亡者」の餌食となる。<br />
<br />
このアン・フェアーなトレードは、もう一つの顔を持っている。<br />
<br />
それは、「金銭的価値を追求する亡者」のもう一つのビジネス、すなわち、投機事業である。投機事業の本質は、土地や株式などの買占めや空売りによるキャピタル・ゲインの最大化である。この事業は人間の生業ではない。<br />
生業とは、人間が自然に働きかけ、他人と共に、その恵みを生かし、共存しながら仕事をすること。これが基本である。この結果、人間は、財やサービスを生みだし、それらを交換し、あるいは、自己消費して生活することができる。また、他人と共に働くとき、自分が蓄積した財産を貸し出して、ともに、成果をあげることも出来る。この点から見て、生業には、生産、交換（商業を含む）、金融などの多様な職業を含むことが出来る。<br />
<br />
しかし、生業を悪用して、金融事業者が投機事業に乗り出すことは、生業とはいえない。これは「生業から疎外された金融事業者」である。同様に、商人が「固有価値のある職人芸の生産物（例えば工芸品）を金銭の蓄積力を活かして安く買い叩く」ことも、生業ではない。これは「生業から疎外された商人」である。<br />
<br />
　疎外というのは、自分が生業でつくりだしたもの（例えば金銭）を、自分や生業よりも価値が高いと錯覚して、金銭亡者になり、生業を金銭獲得の手段としてしまい、その結果、人間本来の姿を見失う事を言う。<br />
<br />
　これは、「疎外された生業としての投機事業」ともいうべき異常なビジネスである。<br />
<br />
このビジネスの手に掛かると、生業で手に入れた、なけなしの金銭を株式の購入に投じた人々は、かれらの株価操作に振り回され、値上がりに便乗すると、急激な下落に見舞われる。かれらの金銭は瞬間に、投機業者の手に渡る。それだけではない。<br />
<br />
投機事業者自体が生業の実態を見失って、危険な事業に引き込まれ、自身が破産して世界経済全体を大不況に巻き込む。たまったものではない。<br />
株式市場では、生業を表現しない、「疎外された象徴資本」ともいうべき企業が人気を集め、人々を欺く。<br />
<br />
　ここでは、「多額の貨幣蓄蔵をもつ投機事業者」と「小額の貨幣しかない生業人」が混在する。ここでは、「金銭の多額が投機を象徴し、小額が生業を象徴する」のだ。<br />
<br />
　大不況に直面して投機すら出来なくなった「生業から疎外された人々」を、Ｊ．Ｍ．ケインズは、金利生活者と呼んで、批判の対象にした。これは、「お金を溜め込む人々」という意味である。「消費せず、投資もしないで蓄積し、仕舞っておく」といってもよい。<br />
経済学には、古くから「拝金主義」「重金主義」さらには「貨幣蓄蔵」という表現もある。</span>
]]></content:encoded>
    <dc:subject></dc:subject>
    <dc:date>2010-07-10T15:03:51+09:00</dc:date>
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    <title>私の教育人生４１（本物と映像）−４「文化資本の象徴化と貨幣資本」池上惇</title>
    <description>━━━━第41部━本物と映像━━━━━━━
    ４「文化資本の象徴化と貨幣資本」
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 福原義春先生が編集された『文化資本の経営』（ダイタモンド社、1999年）は、文化資源を、資本、労働、土地と並ぶ第４番目の資源として位置づけている。

 そして、この...</description>
<content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:medium;">━━━━第41部━本物と映像━━━━━━━<br />
    ４「文化資本の象徴化と貨幣資本」<br />
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 福原義春先生が編集された『文化資本の経営』（ダイタモンド社、1999年）は、文化資源を、資本、労働、土地と並ぶ第４番目の資源として位置づけている。<br />
<br />
 そして、この書では、文化資本には、職人技のように‘人に体化されたもの’と、地域や有形のものと一体になった「場の文化資本＝景観や文化財、文化的な社屋、都市空間など」がある、と、考えられていた。<br />
ここまでは、ラスキンらの文化資本論と同様である。<br />
ところが、この書は、さらに進んで、「象徴資本」としての文化資本を取り上げている。<br />
 <br />
 具体的には、ブランド化された社名や商品名。たとえば、「○○堂」という漢字の表現字体が、ひとつの文化資本である。これは、「ビジネス、生業としての○○堂の生産、流通、販売などに関わる、‘人や場に体化された文化資本’」とは違う、独自の文化資本である。<br />
<br />
 この象徴型文化資本は、○○堂という「ほんもの」の地域固有の文化資本（銀座の○○堂）の反映であり、生業のシンボルとしての表現である。しかし、反映といっても、単なる模倣の意味ではない。それは、広告やメディアで、芸術的な表現と一体となって、現場の○○堂を見ただけでは認識できない、○○堂の歴史や企業発生の過程、創業者の人物像、フランスの芸術化との文化交流、など、多様なイメージを３文字の漢字に凝縮して示すことができる。<br />
<br />
 このような「象徴化」が進むと、「○○堂」という「象徴化された文字」を媒介として、○○堂を文化資本としてではなくて、貨幣資本として評価する手がかりが生まれてくる。　<br />
<br />
 それは、○○堂の株価という新聞紙面の表示をみれば、一株の価格が表示されている。この価格は、文化資本の象徴ではない。それは、貨幣資本としての○○堂の象徴である。　<br />
<br />
 それは、株式投資家にとっては、株を購入して、配当や株価の値上がりが所得をもたらし、金銭的価値が増加するかどうかを示唆する。<br />
ここで、財やサービスの市場での金銭表示、あるいは、価格という「貨幣額」の持つ意味を改めて考えてみよう。これらの価格は「株価」と同様に、財を生産した企業や個人の貨幣資本に対する評価である。これらの価格は、その企業などの「ほんもの」が生み出す創造性などを表示しない。「ほんもの」がつくりだす財の文化的価値が高くても、それを公正に評価せず、金儲けを考えて、不当に安く買い叩くことができる。<br />
 <br />
 文化資本の担い手が職人技につよくても、販売や流通の専門家でなければ、彼らの生産物を商人や仲介業者が買い叩くのは、容易である。そうなれば、企業が、文化資本として価値の高い人やものを活かして、創造的な財を生み出したとしても、その生業を、貨幣資本の価値としては、低く評価し、金銭的価値を増加させる手段とすることができる。<br />
<br />
 これは、アンフェアなトレードである。　明日は、この点を深めてみよう。</span>
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    <dc:subject></dc:subject>
    <dc:date>2010-07-09T23:38:08+09:00</dc:date>
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    <title>私の教育人生４１（本物と映像）−３「二つの地域固有型文化資本（続き）」池上惇</title>
    <description>━━━━第41部━本物と映像━━━━━━━
３「二つの地域固有型文化資本（続き）」
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さて、地域固有型文化資本の「有形のもの」に移ろう。

これは、地域固有型文化資本の第二の側面といえよう。
この文化資本は、「人に体化されたもの」に対して「固有...</description>
<content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:medium;">━━━━第41部━本物と映像━━━━━━━<br />
３「二つの地域固有型文化資本（続き）」<br />
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さて、地域固有型文化資本の「有形のもの」に移ろう。<br />
<br />
これは、地域固有型文化資本の第二の側面といえよう。<br />
この文化資本は、「人に体化されたもの」に対して「固有価値を持つ有形物」と呼ばれる。ラスキンは、つぎのような五項目を挙げていた。現代的に補足しながら考えてみよう。<br />
<br />
?土地。これに付随した空気、水、諸生物。地域といっても良い。伝統や習慣の継承、生態系、自然環境の保全や文化財の保護などと一体となった「文化環境基盤」。また、食糧生産やエネルギー供給の基盤。都市や農村の空間。<br />
<br />
?家屋、什器、諸道具。社屋や住居、倉庫、劇場、ホール、美術館、文化遺産、まちなみなど。食器、棚、部屋を飾る置物、花瓶から、身辺を装飾する多様なデザインと機能を持つ衣装だな、箪笥。机、椅子、本棚、工芸品など。<br />
<br />
?貯蔵ないし予備の食物・医療品、および、衣服を含めての身辺趣味用品。冷凍や冷蔵を含む食品、災害や緊急の救助などに備えた医薬品の備蓄。?に収納された衣料品。<br />
<br />
?書物。書籍、雑誌など。学術、文芸、大衆文化、など、主として紙媒体による文字や楽譜などの表音、表意情報の蓄積。<br />
<br />
?芸術品。絵画、彫刻など美術作品、それらを生み出す木、土や金属などの素材、絵具の素材、絵筆、彫刻刀、など。音楽作品。それらを生み出す楽器など。<br />
（第１論　生の維持、富、貨幣、及び富裕　１５節）<br />
<br />
これらは、いずれも、自然、伝統や習慣を背後に持つ「ストック」であって、「自然を生かして人が生み出す」「モノに体化された」文化資本である。<br />
<br />
人間の固有性としての「人間的な創意工夫」には、資源や環境に対する共感や科学的な認識によって、資源や環境の「固有の性質」を把握し、その性質を創意工夫の中で活かして行く、という重要な側面が含まれていた。<br />
このように定義すれば、人間の固有性は自然の固有性を活かしてこそ発揮されるものであり、自然の固有性を無視した人間の固有性はありえないことになる。また、景観のよさは、人間が創造活動を営み、享受する前提である。<br />
<br />
　二回に分けて地域固有型文化資本を研究し、これら２者を「ほんもの」として位置づけよう。<br />
<br />
　この「ほんもの」を共通の基礎として、たとえば、都市に「創造型人間」と「創造型有形資産」が集積したとする。この両者が仕事や生活の中で生み出す動きは、実体的な創造空間、あるいは、「場」であって、「創造都市」なども、このような場であろう。<br />
　このような場がうみだすものを産業として把握してみよう。そこには、創造産業とよばれるもののうち、「地域に根ざした」「現実の産業」が発見できる。<br />
そして、これらの産業が、教育事業、広報・普及活動、放送事業、メディア、インターネット、広告事業などを媒介として、人々に、自分たちの動きを伝えるとき、そこには、「動き」を象徴する広報、商標やデザイン、キャラクター、アニメによる映像、芸術的表現、学術的表現などの象徴型文化資本が生み出されるのである。<br />
<br />
創造都市は、現場的な地域固有文化資本と、サイバー空間や映像空間に密着した象徴型文化資本の複合的存在となる。両者は饗鳴しあって、創造都市空間を創り出す。</span>
]]></content:encoded>
    <dc:subject></dc:subject>
    <dc:date>2010-07-08T21:38:51+09:00</dc:date>
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    <title>私の教育人生４１（本物と映像）−２「二つの地域固有型文化資本」池上惇</title>
    <description>━━第41部━本物と映像━━━━
２「二つの地域固有型文化資本」
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「ほんもの＝固有価値を担う文化資本」とは何か

　現代の文化資本論はブルュデユーが提起して以来、「人に体化された」文化資本を基軸とし、教育制度を通じて、次世代に継承される文化資...</description>
<content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:medium;">━━第41部━本物と映像━━━━<br />
２「二つの地域固有型文化資本」<br />
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「ほんもの＝固有価値を担う文化資本」とは何か<br />
<br />
　現代の文化資本論はブルュデユーが提起して以来、「人に体化された」文化資本を基軸とし、教育制度を通じて、次世代に継承される文化資本を取り上げてきた。<br />
<br />
　これに対して、１９世紀の後半期に、Ｊ．ラスキンが「ムネラ・プルウェリス」１）<br />
で取り上げた「固有価値」の理論は、現在、文化資本と呼ばれているものを、大別して二つの側面から接近して理論化している。<br />
　ひとつは、人間に体化された自然や社会の固有価値である。これは、目に見えない。<br />
　いま、ひとつは、自然に働きかけて人々がともにつくり出してきた、「有形のもの」である。<br />
<br />
　今日は、第一の「人に体化されたもの」を取り扱おう。<br />
<br />
この第一の側面は、景観や文化財の歴史性など、「背景を取り込んだ」人間の「創造の‘営み’」が、人間を高め、変化させ、発達させる、ということである。<br />
<br />
これは、自然や歴史の固有性の問題と密接に関わる。あるいは、習慣と伝統を継承し発展させる人格である。<br />
つまり、「自然の固有性を踏まえた人が生業を営む中で、創造性を生み出し、高い人格を創り出す」という問題である。ある意味では、生活や仕事における技術に優れ、熟練し、技巧に優れ、正確な判断力を持つ。これは重厚な魅力を持つ職人の存在感である。そして、この職人技が存立できるのは、「自然や歴史が基盤にあって、人の創造したものを享受する力量がつくりだされる」ことによる。これは、享受者の存在である。<br />
<br />
 この着想を文化資本論に活かすとすれば、「人に体化された文化資本」は、自然、景観、資源や環境の価値と関連している。自然や環境、あるいは、歴史的な景観、文化財の生み出す雰囲気。これらを観察し、固有の価値を認識し、それらを人間の生業のなかに活かす。この生業は、「暮らしに役立ち、同時に、創造的で、芸術的な表現をもつ財」をつくる職人技や職人を生む。<br />
ここでは、職人をつくる自然の景観、素材、伝統の技、仕事や生活の習慣が「文化資本」としての職人をつくる。<br />
<br />
 これらは、現代では、「多様な文化産業を生む職人とその価値を理解する享受者」と呼ばれる。職人は、伝統や習慣を踏まえて、「真の人間的な創意工夫を要する、どのような国民生産物」をも作ることができる。<br />
Ｗ．モリスは、人間が「生活の芸術化」を推進すれば、農業職人、製造業職人、サービス業職人、芸術職人、学術職人などが生まれると考えた。</span>
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    <dc:date>2010-07-08T00:28:02+09:00</dc:date>
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