2010.07.23 Friday
私の教育人生42(果てしなく遠い道)−2「固有価値と経験価値」池上惇
━━第42部━果てしなく遠い道━━
2「固有価値と経験価値」
━━━━━━━━━━━━━━━━━
「外側から入ってきた知識の型に‘とらわれて’しまうと、自分の内発的な良心に立ち返って、柔軟に、積極的に、未知のものに対応する力が低下しますよ。経営者にとっては、この‘囚われ’が最悪の結果を招きます。」
「同時に、この‘囚われ’に気付き、自分の経験知の価値の大きさに目覚め、‘体得した知識’を基礎として新たな知識を柔軟に受容できると、良い仕事が出来ます。」
これは、ベテラン経営人の私へのご助言である。
一生懸命に、大学院大学の創設に打ち込んでいたとき、私の姿勢の中に、このような‘囚われ’を感じられたのであろう。
この‘内発的な良心’とは、何だろう。大阪へのJRの車中で、一生懸命に考えていた。
どうも、それは、私にとっては、「固有価値」「固有価値の享受能力」などと言ってきたことではなかったのか。それを忘れていたわけではないが奔っているうちに、どこかに、おいてきたのか。
***********************************
私は、大学における学部の新設や専攻の増設に一貫して微力を尽くしてきた。その意味では、「大学制度」の理解者であると自分に言い聞かせ、その積極的な活用を求め、奨励してきた。そして、オーバードクターなど、失業者が出てくると大学の増設によって、社会のニーズに応え、雇用を拡大しようとしてきた。京大でも、福井県大でも、京都橘女子大学でも、すべて、増設は成功した。大学づくりには、研究者への希望と言える何かがあって、私なりの成功体験であったのだろう。
しかしである。
「通信制社会人教育で、『文化による‘まちづくり’」を担う人材をつくる』と言い出した途端に、急に、状況が厳しくなって、折角、学部をつくっても、名称変更や、再編成を進められてしまう。かといって、新設に力を入れても、うまくゆかない。
どうしてなのかな、と、考えているうちに、先のご助言をいただいたのである。
一度、従来の成功体験をはなれて、なぜ、いま、自分は、この大学院づくりに取り組んできたのか。改めて見詰めなおした。
それは、はるか、1960年代のことになる。
当時は、三菱三重工合併や新日鉄の発足など、日本産業の再編成が相次いでいた。そこで、中小企業の再編成が進み、倒産も増えていた。大学の助手を拝命して地域調査に打ち込んでいた頃、倒産企業の再生を担って、リュックサックに自社の商品を詰め、行商している方々に出会った。これが、私の「仕事おこし」との出会いであった。この方々は地社の製品、自分の職人技に自信を持っておられ、「企業はなくても、人間はいる。商品はつくれる」とのメッセージが伝わってきたのである。材料や自然の素材のよさを活かし、職人の技で創り上げたもの、それに誇りを持つ人々は、惨めな失業者として、世間からは冷たく見られる。しかし、顔を上げ、誇りを持って商品を世に出す。この商品には、自然の固有のよさと、職人技の固有性とが結合されていて、それが、形となっている。
この固有のよさを、享受できる人々が、でてくれば、企業は再建できるのだ。
「創造」と「享受」の場を繋ぐもの。それは何だろう。
それが、大学だ、と教えてくれたのは、大塚金之助先生が岩波書店から刊行されていた『解放思想史の人々』という1冊であった。このなかに、アダム・スミスがグラスゴウ大学で、職人、ワットのために蒸気機関の実験所を設けたことが記されている。創造する人々に場を提供し、享受する人々を開発して、世に出してゆく。
こういう大学をつくりたいなあ、と思ったのが、今日まで、私の良心が命じた行動であった。
「生業の中で創造的なアイディアを生み出した人々が、それを発展させ、実用化し、世の中に出してゆく場としての大学院」「働きつつ学ぶ人々の大学院」これが私の原点であった。
2「固有価値と経験価値」
━━━━━━━━━━━━━━━━━
「外側から入ってきた知識の型に‘とらわれて’しまうと、自分の内発的な良心に立ち返って、柔軟に、積極的に、未知のものに対応する力が低下しますよ。経営者にとっては、この‘囚われ’が最悪の結果を招きます。」
「同時に、この‘囚われ’に気付き、自分の経験知の価値の大きさに目覚め、‘体得した知識’を基礎として新たな知識を柔軟に受容できると、良い仕事が出来ます。」
これは、ベテラン経営人の私へのご助言である。
一生懸命に、大学院大学の創設に打ち込んでいたとき、私の姿勢の中に、このような‘囚われ’を感じられたのであろう。
この‘内発的な良心’とは、何だろう。大阪へのJRの車中で、一生懸命に考えていた。
どうも、それは、私にとっては、「固有価値」「固有価値の享受能力」などと言ってきたことではなかったのか。それを忘れていたわけではないが奔っているうちに、どこかに、おいてきたのか。
***********************************
私は、大学における学部の新設や専攻の増設に一貫して微力を尽くしてきた。その意味では、「大学制度」の理解者であると自分に言い聞かせ、その積極的な活用を求め、奨励してきた。そして、オーバードクターなど、失業者が出てくると大学の増設によって、社会のニーズに応え、雇用を拡大しようとしてきた。京大でも、福井県大でも、京都橘女子大学でも、すべて、増設は成功した。大学づくりには、研究者への希望と言える何かがあって、私なりの成功体験であったのだろう。
しかしである。
「通信制社会人教育で、『文化による‘まちづくり’」を担う人材をつくる』と言い出した途端に、急に、状況が厳しくなって、折角、学部をつくっても、名称変更や、再編成を進められてしまう。かといって、新設に力を入れても、うまくゆかない。
どうしてなのかな、と、考えているうちに、先のご助言をいただいたのである。
一度、従来の成功体験をはなれて、なぜ、いま、自分は、この大学院づくりに取り組んできたのか。改めて見詰めなおした。
それは、はるか、1960年代のことになる。
当時は、三菱三重工合併や新日鉄の発足など、日本産業の再編成が相次いでいた。そこで、中小企業の再編成が進み、倒産も増えていた。大学の助手を拝命して地域調査に打ち込んでいた頃、倒産企業の再生を担って、リュックサックに自社の商品を詰め、行商している方々に出会った。これが、私の「仕事おこし」との出会いであった。この方々は地社の製品、自分の職人技に自信を持っておられ、「企業はなくても、人間はいる。商品はつくれる」とのメッセージが伝わってきたのである。材料や自然の素材のよさを活かし、職人の技で創り上げたもの、それに誇りを持つ人々は、惨めな失業者として、世間からは冷たく見られる。しかし、顔を上げ、誇りを持って商品を世に出す。この商品には、自然の固有のよさと、職人技の固有性とが結合されていて、それが、形となっている。
この固有のよさを、享受できる人々が、でてくれば、企業は再建できるのだ。
「創造」と「享受」の場を繋ぐもの。それは何だろう。
それが、大学だ、と教えてくれたのは、大塚金之助先生が岩波書店から刊行されていた『解放思想史の人々』という1冊であった。このなかに、アダム・スミスがグラスゴウ大学で、職人、ワットのために蒸気機関の実験所を設けたことが記されている。創造する人々に場を提供し、享受する人々を開発して、世に出してゆく。
こういう大学をつくりたいなあ、と思ったのが、今日まで、私の良心が命じた行動であった。
「生業の中で創造的なアイディアを生み出した人々が、それを発展させ、実用化し、世の中に出してゆく場としての大学院」「働きつつ学ぶ人々の大学院」これが私の原点であった。






