2010.07.18 Sunday
私の教育人生41(本物と映像)−10「大学院大学の固有性とシンボル価値」池上惇
━━━━第41部━本物と映像━━━━━━━
10「大学院大学の固有性とシンボル価値」
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前回は、中身よりもイメージを重視し、イメージにあわせて中身をつくろうとする大学人の傾向について指摘した。これは、開発構想など多くの領域で見られることだ。
これに対して、現在、申請を準備中の大学院大学では、「地に根ざした固有性」が重視されている。各地に根ざした地元学ネットワークの研究教育実績を基礎に、京都の大学で育まれてきた学術的伝統を結合し、国際水準の文化政策大学院をつくろうと言うのだ。
そして、このイメージを広告ではなくて、現場の‘営み’を映像化し、それを授業に反映させようとする。地域固有性があっての「象徴型文化資本=映像、電子ブックなどが示す大学院像」である。
ととろが、審査の先生方の発想は、「イメージ」が、まず、あって、それを実現するために、教学やカリキュラムを組ませ、それが、卒業人の職業適応性を決める、と、お考えのようである。
大学の中身は、ともかく、まず、外に出る「映像的な広告的イメージ」を審査の各位は重視されているようだ。
審査の意見には「○○像」を求める指摘がめだつ。例えば、次のようなものである。
まず、審査の意見というものを説明しよう。
審査意見というのは、A4の、あまり文化的とはいえない、どちらかといえばさえない、印刷スタイルで、横書きで書かれている。よい印刷ソフトを準備するには財政危機が影響しているのだろう。
文化政策大学院では、審査意見が48もあった。不思議なことだが、意見への対応は述べる機会がない。意見数が多いだけで、6月の審査会の審査を経ないで、不可に出来るルールをつくられたそうで、私たちが意見を述べる機会はないそうだ。
この意見群のなかの「是正意見」が、「○○像」を求めて、それから、中身をつくらせようとする典型的なものであった。
是正意見というのは、改善意見、要望意見という3ランクのなかで、最も強い指摘のことである。端的にいうと、‘是正しないと認可しない’と言う意味らしい。
今回の是正意見の先頭におかれていたのは、社会人学生教育の卒業後の進路についての部分である。是正意見は、次のようなものであった。
「高度専門的職業人像が不明確であるため、具体的に示すよう修正すること」{審査意見3.(5月)不可(案)}。
この指摘が「像」を求めていることは明らかである。
実は、高度専門職業人の進路に関する記述は、申請書では具体的に詳しく述べられていて、文化資源を生かしうるコーディネイターが高度な専門職業人として位置づけられていた。それらの事例や開拓の必要性も語られている。7ページから15ページまで、相当な長い記述であり、社会の需要とそれに対応する職業分野、その開拓の重要性を詳細に具体的に論じていた。私が基軸となり討論によって執筆したが、一同、とくに、力を入れたように思う。
それでも、「像」が見えないという言い方は可能である。「像」には多様性があって、誰でも、提起できるし、自分に「像」がなくても、質問は出来るからである。
これは、「広告」にだせる「大学イメージ」が自由に操作できるのと同様である。通例は、
社会学者が「シンボル操作」とよぶ手法の一種なのだ。これは、ある人をイメージで誘導するものであるから、本来、真理や学術を探究する場を形式的に取り扱う「大学の審査」には馴染まない。しかし、恐らくは、無自覚に、操作を実行されているのであろう。
操作となれば、これは、審査側のイメージを被審査側に暗黙裡に提示するおそれがあるから、法の趣旨からいえば、違法性が強いかもしれない。審査はあくまで「形式審査」であるべきで、「教学の内容や大学院大学の理念など」には踏み込めないからである。
審査は、「像」と言う表現で、私たちが執筆した卒業生の高度専門職業人のイメージ(それは、各地の‘営み’に基礎を置いた、文化資源を活かすコーディネイターという「像」)を否定し、しかし、具体的には、自分の意見を言わずに、変更を求めている。つづけていう。
「併せて、高度専門(的)職業人の養成を掲げるのであれば、その養成する人材像に整合した教育課程となるよう修正すること」とある。つまり、自分の「像」はいわないが、あなたの「像」とは別の「像」を想像して、「それに併せて書き直しなさい」と言っているのだ。
これは、法的には「無作為」による教唆にあたり、最も、非倫理的な、昔の日本の表現では「卑怯」と呼ばれた操作方法に当たる。私は武士ではないから反論はしないが。
例えば、「像」を具体的に示せ、というなら、「ここには、このように書いてあって、このように理解できる。しかし、○○の理由で抽象的であると判断する。具体的に書くとすれば、『像』は、かくかく、しかじかで、つぎのようになるのではないか」というように指摘する必要がある。これでなければ、互いに議論の根拠を認識しあってよりよい結論に導くことは出来ないからだ。
しかし、このように「具体的に」書けば、それは、「形式審査ではない。実質的な内容にたちいった、違法行為である」と言われるだろう。このような意味では、「像」に関する質問はあってよいが、対面で議論すれば有益なものであり、一種の強制性がある「是正意見」ではないだろうと思う。
同時に、申請の内容を、このように、抽象的な「像」によってしか、理解できないのは、現在の大学が、教育サービスの提供を「知識の缶詰=広告イメージ」のように思っているからであろうと想像した。おそらくは、審査の各位は御自分の大学を広告するとすれば想像されるであろう「高度専門職業人のイメージ」と、それに必要な「知識の缶詰」をつくるカリキュラムが対応しているはずだと考えられたのではないか。
その意味では、今回、私は、申請を自分で引き下げる結果となったので、ご苦労をおかけした事務官の各位や、関係者、支援者にはお詫びする他はないが、今後は、無作為のシンボル操作と疑われるようなことはすべきではないと思う。自戒を込めて。*
*最近、京都の学術人の集まりの場で、文化政策大学院の不可を話題にして提供された由である。これも一種の「シンボル操作」であって、おそらく、私たちのイメージを現実から乖離させる結果をともなうだろう。私の不徳。お詫びと共に深く慎むべきこと。反省。
10「大学院大学の固有性とシンボル価値」
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前回は、中身よりもイメージを重視し、イメージにあわせて中身をつくろうとする大学人の傾向について指摘した。これは、開発構想など多くの領域で見られることだ。
これに対して、現在、申請を準備中の大学院大学では、「地に根ざした固有性」が重視されている。各地に根ざした地元学ネットワークの研究教育実績を基礎に、京都の大学で育まれてきた学術的伝統を結合し、国際水準の文化政策大学院をつくろうと言うのだ。
そして、このイメージを広告ではなくて、現場の‘営み’を映像化し、それを授業に反映させようとする。地域固有性があっての「象徴型文化資本=映像、電子ブックなどが示す大学院像」である。
ととろが、審査の先生方の発想は、「イメージ」が、まず、あって、それを実現するために、教学やカリキュラムを組ませ、それが、卒業人の職業適応性を決める、と、お考えのようである。
大学の中身は、ともかく、まず、外に出る「映像的な広告的イメージ」を審査の各位は重視されているようだ。
審査の意見には「○○像」を求める指摘がめだつ。例えば、次のようなものである。
まず、審査の意見というものを説明しよう。
審査意見というのは、A4の、あまり文化的とはいえない、どちらかといえばさえない、印刷スタイルで、横書きで書かれている。よい印刷ソフトを準備するには財政危機が影響しているのだろう。
文化政策大学院では、審査意見が48もあった。不思議なことだが、意見への対応は述べる機会がない。意見数が多いだけで、6月の審査会の審査を経ないで、不可に出来るルールをつくられたそうで、私たちが意見を述べる機会はないそうだ。
この意見群のなかの「是正意見」が、「○○像」を求めて、それから、中身をつくらせようとする典型的なものであった。
是正意見というのは、改善意見、要望意見という3ランクのなかで、最も強い指摘のことである。端的にいうと、‘是正しないと認可しない’と言う意味らしい。
今回の是正意見の先頭におかれていたのは、社会人学生教育の卒業後の進路についての部分である。是正意見は、次のようなものであった。
「高度専門的職業人像が不明確であるため、具体的に示すよう修正すること」{審査意見3.(5月)不可(案)}。
この指摘が「像」を求めていることは明らかである。
実は、高度専門職業人の進路に関する記述は、申請書では具体的に詳しく述べられていて、文化資源を生かしうるコーディネイターが高度な専門職業人として位置づけられていた。それらの事例や開拓の必要性も語られている。7ページから15ページまで、相当な長い記述であり、社会の需要とそれに対応する職業分野、その開拓の重要性を詳細に具体的に論じていた。私が基軸となり討論によって執筆したが、一同、とくに、力を入れたように思う。
それでも、「像」が見えないという言い方は可能である。「像」には多様性があって、誰でも、提起できるし、自分に「像」がなくても、質問は出来るからである。
これは、「広告」にだせる「大学イメージ」が自由に操作できるのと同様である。通例は、
社会学者が「シンボル操作」とよぶ手法の一種なのだ。これは、ある人をイメージで誘導するものであるから、本来、真理や学術を探究する場を形式的に取り扱う「大学の審査」には馴染まない。しかし、恐らくは、無自覚に、操作を実行されているのであろう。
操作となれば、これは、審査側のイメージを被審査側に暗黙裡に提示するおそれがあるから、法の趣旨からいえば、違法性が強いかもしれない。審査はあくまで「形式審査」であるべきで、「教学の内容や大学院大学の理念など」には踏み込めないからである。
審査は、「像」と言う表現で、私たちが執筆した卒業生の高度専門職業人のイメージ(それは、各地の‘営み’に基礎を置いた、文化資源を活かすコーディネイターという「像」)を否定し、しかし、具体的には、自分の意見を言わずに、変更を求めている。つづけていう。
「併せて、高度専門(的)職業人の養成を掲げるのであれば、その養成する人材像に整合した教育課程となるよう修正すること」とある。つまり、自分の「像」はいわないが、あなたの「像」とは別の「像」を想像して、「それに併せて書き直しなさい」と言っているのだ。
これは、法的には「無作為」による教唆にあたり、最も、非倫理的な、昔の日本の表現では「卑怯」と呼ばれた操作方法に当たる。私は武士ではないから反論はしないが。
例えば、「像」を具体的に示せ、というなら、「ここには、このように書いてあって、このように理解できる。しかし、○○の理由で抽象的であると判断する。具体的に書くとすれば、『像』は、かくかく、しかじかで、つぎのようになるのではないか」というように指摘する必要がある。これでなければ、互いに議論の根拠を認識しあってよりよい結論に導くことは出来ないからだ。
しかし、このように「具体的に」書けば、それは、「形式審査ではない。実質的な内容にたちいった、違法行為である」と言われるだろう。このような意味では、「像」に関する質問はあってよいが、対面で議論すれば有益なものであり、一種の強制性がある「是正意見」ではないだろうと思う。
同時に、申請の内容を、このように、抽象的な「像」によってしか、理解できないのは、現在の大学が、教育サービスの提供を「知識の缶詰=広告イメージ」のように思っているからであろうと想像した。おそらくは、審査の各位は御自分の大学を広告するとすれば想像されるであろう「高度専門職業人のイメージ」と、それに必要な「知識の缶詰」をつくるカリキュラムが対応しているはずだと考えられたのではないか。
その意味では、今回、私は、申請を自分で引き下げる結果となったので、ご苦労をおかけした事務官の各位や、関係者、支援者にはお詫びする他はないが、今後は、無作為のシンボル操作と疑われるようなことはすべきではないと思う。自戒を込めて。*
*最近、京都の学術人の集まりの場で、文化政策大学院の不可を話題にして提供された由である。これも一種の「シンボル操作」であって、おそらく、私たちのイメージを現実から乖離させる結果をともなうだろう。私の不徳。お詫びと共に深く慎むべきこと。反省。






