2010.07.28 Wednesday
私の教育人生42(果てしなく遠い道)−5「文化経済学―ライフと富」池上惇
━━第42部━果てしなく遠い道━━
5「文化経済学―ライフと富」
━━━━━━━━━━━━━━━━━
文化経済学は、「生業と、そのシンボルを凝視することによって自分を変え、友を変え、世界を変えようとする。
大変、誠意のある、実践的な学問である。石田梅岩流に言えば、「実心実学」の姿である。 「文化経済学とは」という定義を試みよう。
まず、この学問の研究対象を考える。
それは、「文化を活かす生業と、そのシンボル化が世界を変える」こと、つまり、生業と、それが生み出すシンボルとの相互関係を研究対象にしている。
従来の経済学とは、相当に違っている。
従来の経済学は、社会における経済の動きを研究対象とし、そのなから一定の規則性や法則性を発見しようとした。
文化経済学は、生業を支配する法則を探求はするが、これで終わりにはしない。
生業を高める創意工夫や芸術的表現を追求して、その成果を「生業のシンボル」として評価し、それを生業に反映させ、それによって、生業の質を上げようとする。
これが文化経済学を生み出した人々の「文化の位置づけ」であり、
「世界の見方」、つまり、世界観である。
例えば、文化経済学の創始人、
J.ラスキンは、「富」を定義して、つぎのようにいう。
There is no wealth but life.
この定義は、文化経済学の本質を言い当てたものだ。
その意味は、次のとおりである。
「生業なくして、『富』は存在しない」
すなわち、「人間は、自分たちの持つ生命の‘潜在的な可能性’を活かして、仕事や生活を営んでいる。これ以外の生き方では、富が生まれることはありえない」と。
さらに、ラスキンは、生業は、必ず、「生業のシンボル」を生み出すと考えた。そして、その生み出されたシンボルを手がかりとして、あるいは、目標として、人々が、従来の生業を見直し、改革や改善を永続的に実行すれば、『富』が質的に高まり、量的にも増加するという。
では、「生業のシンボル」とは何か。
それは、「生活の芸術化」ともいうべき、人々が同意できる理念でもあり、「生業の中から生まれて、生業の目的となり課題となる象徴的な表現」である。
生活の芸術化は、決して、幻想ではない。それは、生業に基礎を置き、自然と共生する人間の労働と、創造の‘営み’を表現している。
生活の中の芸術を表現する上で、典型的な事例は、1884年、W.モリスが遺した一枚のスケッチである。
そこには、19世紀後半のイギリス労働者階級の小住宅、狭小過密な居間が取り上げられて居る。次に、この居間を取り上げてみよう。
2010.07.24 Saturday
私の教育人生42(果てしなく遠い道)−4「私の本棚・青木豊明『こしの都』」池上惇
━━第42部━果てしなく遠い道━━
4「私の本棚・青木豊明『こしの都』」
━━━━━━━━━━━━━━━━━
久しぶりの書評である。
青木豊明監修『こしの都―千五百年いにしえ浪漫の旅』Vol.1、丹南ケーブルテレビ・地域文化企画室、こしの都編集部 吉田ときお、坂田守正編集制作、発行 丹南ケーブルテレビ・地域文化企画室。福井県越前市塚町101武生商工会館、2階。2010年3月。134ページ。
本書は、現代日韓交流の原点を解明する古典である。契機は2007年継体天皇即位1500年記念事業であるが、歴史、考古学、地域史研究の成果を結集し、百済最後の都、扶餘と武生との「民際」「グローカル」な交流(上田正昭先生のご指摘。23ページ)によって生み出された。
巻末の坂田守正先生のご指摘によれば、「古代の人達は、日本海の海流により、‘こしの国’と頻繁に交流があって、渡来人の伝えた技術と倭国に存在していた技術が融合し発達してきました。」(編集後記)
2001年に天皇陛下が、桓武天皇の母が百済武寧王の流れをくんでいるとの記述などに、韓国とのゆかりを感じると発言された(20ページ)。両国の深い絆を、いま、民際研究によって蘇生させたのが本書である。
この蘇生にあたって、私が特に注目したのは、次の上田正昭先生のご指摘である。
「大僧正行基のお父様は高志才智といって百済系の方です。母は蜂田古爾比売といって百済系です。」(22ページ)行基は土木技術や医療、福祉の生活技術に優れ、智慧あるものには智慧を。手の職あるものは職を。財を持つものは財を。力あるものは力を。それぞれにもちより、自らの力で、ともに、この世を変えることを奨めた。
行基は、この「知識結い」によって日本の民衆を救済し、俗人をも僧になりうるとする画期的な道場を開き公認させた。世界初の道徳共同態の誕生である。俗人を僧にする、と言う発想は、中国王朝にはなかったであろう。まさに、日韓「民際」ならではの着想である。
聖武天皇が「知識結い」学んで東大寺建立に民衆の協力を得たという歴史。この尊い行いも、日韓民際の賜物であったか。
本書を前に、民際による民衆救済事業の思想とその発展について深く考えさせられた。
これは抑圧されたからこそ生まれた思想ではなかったのか。百済が生活技術によって、悲劇に耐える力量を持っていたこと、そして、その力量が「結い」をもって連帯する倭の文化的伝統と交流する中で、日本固有の貴重な道徳的価値が生まれたのだ。
日本の歴史には、「民際」「グローカル」な交流が重要な役割を演じた。和魂漢才、和魂洋才、仏教や儒教、キリシタン文化の受容などなど、この視点から見直してゆくと、新たな日本歴史が見えてくるのだろう。そして、道徳共同態による現代人の生き方も。
画期をなす労作。坂田先生の御貢献に感謝。
2010.07.23 Friday
私の教育人生42(果てしなく遠い道)−3「生業の意味」池上惇
━━第42部━果てしなく遠い道━━
3「生業の意味」
━━━━━━━━━━━━━━━━━
今回の大学院づくりで、わたくしは、「生業に打ち込む人々」の生きるための智慧に注目した。京大で経済学研究科の中に、現代経済学専攻をつくらせていただいたときもそうであったが、社会人大学院生には、現場の迫力を大学院に持ち込みながら、そこで、「生業の中で」生み出されたアイディアが修士論文、博士論文の核心となった例が多い。
これは、自然科学が実験の中で、創造的アイディアを確かめるのと同様であって、社会科学は働く現場で、現場を変えるアイディアをうみだし、実践によってたしかめるのである。このアイディアは、生業に正面から向き合い、まともに、考え抜く人でないと誕生しにくい。その意味では、誠意を貫く人格的な高さがないと研究は出来ないのだろう。
弘法大師さまも、「仁なくして学なし」と言う意味の事を指摘されているが、まさに、そうなのである。
最近の娯楽アニメには、悪魔の誘惑に負けて自分の研究や知識を、彼らに捧げる科学者が登場するが、これは、作り話であって実際には絶無であるように思う。世に言う‘御用学者’(権力者にへつらうの意)は学者の履歴はあっても、実際には、研究はしておらず、学術人というよりは策士というべき人が多い。
そこで、「生業の中で創造的なアイディアを生み出した人々が、それを発展させ、実用化し、世の中に出してゆく場としての大学院」。
「働きつつ、生業から創造的なアイディアを生みだし、学ぶ人々の大学院」が求められるのである。
そして、このような大学院をつくるにあたっては、教師が自己を主張するのではなくて、社会人大学院生の生業をよく理解し、その生業の研究に必要な学術を自分も勉強して、ともに、研究する姿勢が必要である。
幸い、私は、大勢の社会人大学院生を教育したので、ありとあらゆる産業や、行政、福祉や教育の領域を研究する機会に恵まれた。また、私には、「未知のものへの‘無知の自覚’」と、「次世代への支援で貯金を取り崩し貧乏になった誇り」があったので多様な考え方を柔軟に受容できたように思う。人間、自分の学識に自信を持ち、定職につき、要職を得て、カネが出来、豪邸を建てるとろくなことはない。
無知と貧乏のお陰で、自由に学習した結果、おそらく、経済学分野では、当時、主査として、最大の規模の学位授与数であったろう。当然、多様な領域についての深い研究に接して教えていただいたことが多い。有り難いことである。
ここから、教師の学生に対する奉仕や報恩の気持ちが生まれる。社会人学生にも感謝の気持ちをお持ちいただくことが多い。ここで両者に共同研究が成り立つと、実に貴重な成果が生まれる。
大学院大学の設立準備室は、先月まで、年間家賃300万円のオフィスであった。私どもには、とんでもない重い負担であったが、市価からいえば、駅前の一等地である。非常に安い。京都市のご配慮に感謝しながら、ここで申請準備をしつつ無数の共同研究の機会があった。この場が感謝と報恩を基礎とした研究活動の場となったのである。その成果は、少しずつ公表され始めているが、そのうちに、奔流のように広がって学術界を一変させることだろう。社会人学生ならぬ‘自立した社会人研究者’‘オーバードクター’とよばれる迫力ある研究者たち。かれらは、坂本龍馬のように海援隊を組織して、社会を洗濯するひとびとである。彼らを放置し軽蔑する社会の主流派に反省を迫り、自分たちこそが日本の学術を担い、著作物を蓄積し、社会の人々に心の糧となる創造的成果をとどけることを目指している。
私の長い人生は、彼らと共にあって、いま、開花の時期を迎えた。京都の多数の学術人が社会人教育の大事さをご理解いただき、文化資源を活かした生業の研究に多くの関心が寄せられている今、世代を越えて共同研究の輪がひろがることを切望する。
2010.07.23 Friday
私の教育人生42(果てしなく遠い道)−2「固有価値と経験価値」池上惇
━━第42部━果てしなく遠い道━━
2「固有価値と経験価値」
━━━━━━━━━━━━━━━━━
「外側から入ってきた知識の型に‘とらわれて’しまうと、自分の内発的な良心に立ち返って、柔軟に、積極的に、未知のものに対応する力が低下しますよ。経営者にとっては、この‘囚われ’が最悪の結果を招きます。」
「同時に、この‘囚われ’に気付き、自分の経験知の価値の大きさに目覚め、‘体得した知識’を基礎として新たな知識を柔軟に受容できると、良い仕事が出来ます。」
これは、ベテラン経営人の私へのご助言である。
一生懸命に、大学院大学の創設に打ち込んでいたとき、私の姿勢の中に、このような‘囚われ’を感じられたのであろう。
この‘内発的な良心’とは、何だろう。大阪へのJRの車中で、一生懸命に考えていた。
どうも、それは、私にとっては、「固有価値」「固有価値の享受能力」などと言ってきたことではなかったのか。それを忘れていたわけではないが奔っているうちに、どこかに、おいてきたのか。
***********************************
私は、大学における学部の新設や専攻の増設に一貫して微力を尽くしてきた。その意味では、「大学制度」の理解者であると自分に言い聞かせ、その積極的な活用を求め、奨励してきた。そして、オーバードクターなど、失業者が出てくると大学の増設によって、社会のニーズに応え、雇用を拡大しようとしてきた。京大でも、福井県大でも、京都橘女子大学でも、すべて、増設は成功した。大学づくりには、研究者への希望と言える何かがあって、私なりの成功体験であったのだろう。
しかしである。
「通信制社会人教育で、『文化による‘まちづくり’」を担う人材をつくる』と言い出した途端に、急に、状況が厳しくなって、折角、学部をつくっても、名称変更や、再編成を進められてしまう。かといって、新設に力を入れても、うまくゆかない。
どうしてなのかな、と、考えているうちに、先のご助言をいただいたのである。
一度、従来の成功体験をはなれて、なぜ、いま、自分は、この大学院づくりに取り組んできたのか。改めて見詰めなおした。
それは、はるか、1960年代のことになる。
当時は、三菱三重工合併や新日鉄の発足など、日本産業の再編成が相次いでいた。そこで、中小企業の再編成が進み、倒産も増えていた。大学の助手を拝命して地域調査に打ち込んでいた頃、倒産企業の再生を担って、リュックサックに自社の商品を詰め、行商している方々に出会った。これが、私の「仕事おこし」との出会いであった。この方々は地社の製品、自分の職人技に自信を持っておられ、「企業はなくても、人間はいる。商品はつくれる」とのメッセージが伝わってきたのである。材料や自然の素材のよさを活かし、職人の技で創り上げたもの、それに誇りを持つ人々は、惨めな失業者として、世間からは冷たく見られる。しかし、顔を上げ、誇りを持って商品を世に出す。この商品には、自然の固有のよさと、職人技の固有性とが結合されていて、それが、形となっている。
この固有のよさを、享受できる人々が、でてくれば、企業は再建できるのだ。
「創造」と「享受」の場を繋ぐもの。それは何だろう。
それが、大学だ、と教えてくれたのは、大塚金之助先生が岩波書店から刊行されていた『解放思想史の人々』という1冊であった。このなかに、アダム・スミスがグラスゴウ大学で、職人、ワットのために蒸気機関の実験所を設けたことが記されている。創造する人々に場を提供し、享受する人々を開発して、世に出してゆく。
こういう大学をつくりたいなあ、と思ったのが、今日まで、私の良心が命じた行動であった。
「生業の中で創造的なアイディアを生み出した人々が、それを発展させ、実用化し、世の中に出してゆく場としての大学院」「働きつつ学ぶ人々の大学院」これが私の原点であった。
2010.07.21 Wednesday
私の教育人生42(果てしなく遠い道)−1「時空を超える生き方とは」池上惇
━━第42部━果てしなく遠い道━━
1「時空を超える生き方とは」
━━━━━━━━━━━━━━━━━
暑い中、頭がぼうっとして、何となくテレビをみていると、大きな鰐の映像が眼に飛び込んできた。
「恐竜時代を乗り越えて最強の存在だった鰐も、小さくていつも巨大な生き物の陰に隠れて生き残ってきた哺乳類の進化にはかないませんでした。鰐は、地球を襲った大激震が収まって陸に上がった途端、最強の象徴であった大きな口や歯、強くて、長い尻尾などは、機敏に、賢く、急速に動き回る哺乳類には対抗できず、定着できませんでした。
これは、進化の過程で「特殊化」とよばれるもので、身体の機能や能生の構造が、水棲に適応しすぎて陸上での活躍に適応できなくなった事を示しています。」
「これに対して人類の祖先である哺乳類は、ねずみのようにはしっこく動き、四足で歩行し、胎盤で長期に子供を保存して脳の発達に場を提供し、前足を進化させて、手への途を開き、直立歩行の可能性を持って脳を発達させ、さらに、後ろ足を跳躍に活用して、機敏な活動を可能にしました。」
「様々な変化に対応して、機敏に行動できること、脳の進化によって、適切な判断ができること、これらは、哺乳類が変化に対応して生存できる条件となりました。‘特殊化’しないで、多様な変化への多様な適応性をもっていたこと、これが進化の鍵ですね。」
解説者のご説明に納得しながら、いつしか、むかし、愛読した河上肇先生の『自叙伝』の一節を思い出した。先生は、いまでも、「マルクス主義者」という特殊な領域の思想家であると考えられていて、海外の研究者の著作にも、「マルクシスト」として扱われている。
しかし、先生ご自身は、自叙伝のなかで、「自分の特徴は‘真理を求める柔軟な心’にある」ことを指摘されていた。確かに、先生は、若い頃は、儒学、ラスキン、近代経済学、中年から、マルクス経済学、晩年は、老荘思想とラスキンへの回帰、などの「柔軟」な変化を体験された。まさに、特殊化の反対である。
「真理を求めて柔軟に思考し行動し、行動の結果から学習しては行動の型を変更」される。
これは、無限の変化、進化の可能性を持つ思想であろう。
その意味では、「真理を求める柔軟な心」は、時間と空間を越えて、先生の著作を読む人々の「心の糧」となりうる。
いま、市民大学院づくりに取り組んでいると、日本社会は、これだけの発展を遂げていながら、「固定化・骨化」された制度や、頭の固い人間によって政治、行政、学術などの世界が占められていることがわかる。
さらに、これらの世界だけではなくて、自分たちがともに歩み、ある意味では、教育のなかで、一生懸命に発達を支援してきたはずの各位にも、この圧力は浸透している。いつも、不徳だなあ、と感じる。私の生き方が未熟で、開かれた可能性が感じられなかったのだろう。
進化の可能性をいつも開いている生き方。今回は、このテーマを追いかけてみたい。