━━━第71部━推譲経済学の生誕━━━
6「コモン・ストックと推譲経済(続)」池上惇
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前回、スミスのコモン・ストック論についてご説明した。
それは、分業の成果を市場に持ち寄って交換すると、それぞれの職業が生み出した個々人の才能開発の成果が、互いに生かされあう。差異を認め合ったうえでの「コモン・ストック」が形成される。
各人の才能の差異は、‘個人のもの’であって、同時に、‘社会の人々のもの’でもある。個々人は、この結果を予想して商品を交換したわけはないが、結果としては、個々人の才能の差異が個々人の知識や体験の幅を広げる。
興味があるのは、スミスの商品交換モデルには、登場しないが、「商人」を、商品交換に介在させて、コモン・ストックの意味を考えてみることである。これは、日本流の発想であって、尊徳は分業社会の大事さを認識しながら、同時に、分業を仲介し、それを超えてゆく人間関係に注目する。
その人間関係とは、買い手も喜び、売り手も歓ぶ人間関係である。」
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昨日は、京大の大学院研究科の入学式。午後2時から、驚いたことには、岡崎の都メッセで、学歌斉唱、総長訓示。それで、修了。新入生も各自、すきな椅子に座っている。
総長の訓示は素晴らしかった。
‘東日本大震災の衝撃を受け止め、研究者として何が貢献しうるかを深く考え、自分の知らないことを発見して、真摯に取り組む中で、自分の独自性に確信を持て’。
式後、若手研究者が入学されたので、近くの雰囲気の良い喫茶点で乾杯。
これからの研究生活の夢を語り合った。
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そして、夕刻、夕食を取りながらのスミス談義、再開。
「スミスには、商人モデルがありますよ。尊徳と通じているところもあるのではないですか」
「ええつ。どこにあるの。」
「『道徳感情論』ですね。いわゆる商業社会論の趣旨と一致しています。対等平等、公明正大な人間関係。たがいの創意や努力を尊重しあう習慣。これですよ。」
時間に追われて、ここまで書いてから、かなり時間が経過した。
偶然にメールを開いて見ると、そこに、荒木君のブログが掲載されていた。
以下は、その内容である。
「推譲とコモン・ストックの関係
大学院の諸手続きを済ましてから、市民大学院で池上先生と待ち合わせて、食事に出かけた。今日は、お祝いとして、かごの屋ではなく、ココン烏丸の一階にある、フレンチのオーバカナルに連れて行ってもらえた。
今日の議論のテーマは、やはり「推譲経済学」についてであった。4月1日に僕が報告した「世代継承の場としての市民大学院」にて、負の経験価値をコモン・ストックとし、推譲によって、人々を結びつけて、コモン・ストックを増やしていくという主張について、これまでの経済学史に照らしてどうかということを議論した。
まずは、池上先生より、スミスには僕の提起した視点があるのかと問われた。スミスが生きた時代背景より考えると、前時代の封建的な社会構造の中から、私的所有を確立することの重要性を主眼を置いて、自然や環境に共同性を主張するには至らなかったと思われる。しかし、スミス自身は、自然や環境に関して放置していたわけではない。いわゆるコモンズの悲劇のようなことは、スミスが重視していたもう一つの側面、すなわち、人間の徳性によって、起こりようがないと判断していたのではないだろうか。
もちろん、現実は、スミスの思惑とは異なり、私的性のみが無尽蔵に発展していく構造になってしまった。このような事実から、即座にスミスは間違っていると判断するということにはならないだろう。というのも、スミスが生きた時代とその後では決定的に異なることがあるからだ。それは、商品の保存技術の進歩である。
商品の保存や耐久の問題を経済理論に組み込んだのは、かの森嶋通夫先生である。森嶋先生は、主に工業生産物の耐久性を伸ばす技術の発展が、中古市場を生み出し、セイ法則が機能するモデルを崩壊させたと見ている。
実は、スミスは、食品の腐敗性が、金持ちに及ぼす影響について言及している。「高慢で無感覚な地主が、かれの広い畑を眺め、かれの兄弟たちの欠乏については少しも考えないで、そこに成育した全収穫を想像のなかで彼自身が消費してみても、なんの役にも立たない。」
ここで、スミスが言いたいことは、私的所有の原則に従って、地主が、自分のものを確保し、それらをすべて消費しようものなら、当人の効用は決して最大化されないということである。つまり、「彼の胃の能力は、彼の諸欲求の巨大さに対して、まったく釣り合いをもたず、最も貧しい農民の胃よりも多くを、受け入れはしないだろう」。これは、富の形態が、食糧という腐敗しやすいものだから生じる問題である。保存技術が十分発達していない段階では、私的所有を貫いても、獲得したものすべてから効用を得ることはできないのである。
富をより長く保存できるようになれば、このような心配は起こりえない。だが、そのような時代はもっと後なので、スミスの時代の富裕者は、「残りをかれは、彼自身が使用するそのわずかなものを最も見事なやり方で準備する人々の間に、このわずかなものがその中で消費されるべき邸宅を整備する人々の間に、地位ある人々の家計の中で使用されるすべてのさまざまなつまらぬ飾りや愛玩物を供給し整頓しておく人々の間に、分配せざるを得ない。」のである。
ここで重要なのは、彼ら富裕者は、私的所有を否定してはいないということである。「かれらすべては、彼の奢侈と気まぐれから、生活必需品のその分け前を引き出すのであって、かれらがそれを、かれの人間愛またはかれの正義に期待しても、無駄だっただろう」とスミスも言っている。これは、まさに自然の摂理と呼べるもので、スミス自身も、この後で、かの有名な「見えざる手」で説明している。すなわち、スミス流にいえば、自然が、人々に富を偏在を容認しているのは、結果的に、一部の人だけが生き延びることには決してなく、必ず、富者が貧者を救う仕組みになっているからである、ということであろう。これは、まさに尊徳でいう「推譲」に他ならない。
このような認識を持っていたスミスは、資本主義によって発達してきた商品や市場を、崩壊に至らせないようなものを確立させることで充分であった。それがコモン・ストックである。商品経済をコモン・ストックで破滅に向かわないようにすれば、あとは、自然の赴くままでよい、というのが、スミスの主張であった。今日ではありえない発想かもしれないが、当時には十分すぎる妥当性があったと言える。
したがって、今日的に重要なのことは、ありのままのスミスのコモン・ストックを適用するのではなく、時代に応じて、拡張することである。特に、スミスの時代では当たり前であった推譲という行為そのものの意義を再認識し、適切なコモン・ストックへと至る道のりを提起する必要がある。このように考えると、推譲経済学は、アダム・スミスに始まり、マーシャルやラスキン、ケインズを包括できるのではないかと思われる。」
素晴らしい発見と、的確な指摘。納得した。森嶋先生のご指摘と、スミスの主張がつながるとは。恐ろしいことをいう男だ。
「腐らないもの」としての金貨幣が富の独占につながる、という考え方は、富の独占を打破するには、金を紙幣に置き換えておいて、毎週、紙幣に1割引きのスタンプを押し、貯蓄は無意味であり、消費が経済を振興するとの示唆を生んだ。
ケインズの一般理論に出てくのであるが、ゲゼルという商人がロシア革命後に革命委員になって実践した「スタンプ貨幣」論である。私的所有の弊害を貨幣制度改革によって改革しようとしたのだ。
日本でも、同じように、腐らないもの、への関心は石田梅岩にもある。私有制が富の独占となるには、金銀小判などの「蓄積可能な」富があるせいである。そこで、金銀小判を「腐るもの」に転換すれば、富者は自然に富を他人に消費させ、再分配を実行するようになる。このように言うのである。
「腐らない金」の発見と活用が、富の独占につながったのか。私は、納得しながらも、なお、その上で、その日の会話の中にあった、もう一つの論点に触れておきたい。次回。



